【第44回】


バスに乗って
 私用があり、2020年11月初旬に関西へ帰省していた。いや「帰省」と言っても、すでに私の帰る家はない。ただ、長く住みついた土地であり、弟妹や友人が大勢住んでいるため、気分としてはいまだ「帰省」という感じ。
 新幹線で昼過ぎに大阪入り。京阪沿線の古本屋をいくつかめぐり、夜は香里園に住む叔母の家に母や弟が集い、私はそこでひと夜を過ごした。翌日、京都へ行くつもりだったが、京阪沿線で直接向かうのをやめて、別の手を取った。今回、あれこれ検索するうち気づいたのだが、京阪「香里園」から方々にバス路線があり、そのひとつが東へ東へと走り、京阪交野かたの線「交野市」駅を経由し、学研都市線の「津田」駅までを結んでいることを知った。
「津田」駅は枚方市内。私は生まれと育ちが枚方市であるのに、「津田」はほとんど未踏の地である。京阪で直に京都入りするより、わざわざ遠回りで時間も電車賃も倍以上かかるが、バスで「津田」に出て、学研都市線で「祝園ほうその」と連絡通路でつながっている近鉄京都線「新祝園」に乗り継ぎ、「丹波橋」で京阪本線を捕まえて京都入りというコースを考えた。京都に土地艦のない人には複雑で理解不能だろうが、私だって同じようなもの。これは初体験に近い電車移動ルートであった。
 ここではバスの話。香里園駅を出たバスは、おおむね148号線を東へ向かって走る。その北側、香里ケ丘と呼ばれる広大な敷地に「香里団地」がある。ある時期、その団地内に叔母(前出の叔母の姉)が住んでいて、その息子が兄弟みたいにして育った仲のいい従弟だったので、よく訪れたのである。また、団地内にある「第四中学校」は私が最初に入学した母校である(引っ越しのため、1学年途中で転校)。
 香里団地や中学は丘の上を造成した、わりあい平坦な土地にあった記憶がある。しかしバスは、その丘の縁を走るらしく、曲がりくねった道をアップダウンしながら進んでいく。私の知らない香里園だ。途中「野口」という停留所で運転手が交替。終点の津田駅で折り返し運転となるから、長時間運転を避けるためであろう。30分ほどの乗車で「交野市」駅着。交野市駅の少し手前、橋を渡ったが、これが「天野川」と知る。そうか、と独り言を。私は淀川に合流する天野川河口付近で暮らしていたこともある。ここでつながった。
 交野市駅ロータリーで停車し、バスはさらに北東へ進み、学研都市線「津田駅」へと向かっていく。ここで交野市から枚方市へ越境。まったく知らないゾーンに、途中告げられるバス停(「磯野」「倉治くらじ」など)の名さえ、なんだか興奮するのだった。車窓を見ていると、「倉治」のあたりか、かき氷とたこやきの看板を見つける。表示された「たこやき」の値段を見ると「8個200円」と驚異の低価格。思わずバスを途中下車しそうになった。
 上京して驚いたのは東京の「たこやき」の値段の高さで、チェーンの「築地銀だこ」が高い(8個538円+税)のは、もうあれは大阪人の知る「たこやき」とは別ものと言えるとして、それにしても総じて高価格である。あ、バスの話でした。9時41分、香里園駅発のバスは10時23分に「津田駅」着。40分強のバス旅であったが、知らない故郷を垣間見られて大満足でした。

キジを撃つ
「現代詩手帖」1991年11月号が「特集 アメリカ現代詩」。これを古本屋の店頭均一で100円だったので買って、喫茶店でパラパラ読んでいた。最初に登場するのがロバート・ブライ(谷川俊太郎・金関かなせき寿夫ひさお訳)。これがよかった。野や畑や草原、それに木々と自然と共生して生きていく姿が、難解でなく描かれている。あんまりいいので、これに増補した詩集も同じ訳者で出ているが、コピーを取って私製の詩集を作った。これはこれで、愛着のわくものだ。
 最初の1編「トウモロコシ畑にキジを撃ちにきて」にまず心を奪われた。冬の乾いたトウモロコシ畑の中に、たった1本立つ柳の木。ぼくはその柳に魅せられて近づき、とうとう根元にしゃがんでしまう。冷たい太陽と枯れた草。最終の連だけ引いておく。
「心はひとりで、何年も葉っぱを散らせている。/根っこに近い小さな生き物たちと関わりなく。/この太古からの場所にいてぼくは幸せだ、/トウモロコシの上から頭を出してこれじゃ絶好の目標だな、/もしぼくが夕暮れにねぐらに帰る若いけものなら。」
 あるいはこの詩を全部読んで、「どこにもキジなんか出てこないじゃないか」と訝る人が出てくるかもしれない。まあ、そうですね。「キジを撃つ」という成句(隠語)を知らなければそうなる。山登りをする人なら分るだろう。登山用語で、「キジを撃つ」とは、すなわち「野ぐそをする」ことを指す。
 大阪人なら、わりあい簡単に「ちょっとウンコしてくるわ」と言えるが、普通ははばかられる。ちなみに女性の場合は「花を摘む」というらしい。登山道から離れて、茂みを探してしゃがみ込む。そのスタイルが「キジを撃つ」姿に似ていることからつけられたらしいが、海外でもやっぱりそう言うのだろうか(原題がどうなっているかは不明)。
 ちなみにアメリカの詩人でエッセイストのロバート・ブライは1926年生まれで、2020年12月5日現在、94歳でまだ存命。谷川俊太郎はブライより少し後の1931年12月15日 生まれの88歳。あと少しで89歳になる。


筒美京平が亡くなった
 日本の歌謡曲界における最大のヒットメーカー、作曲家の筒美京平が亡くなった。2020年10月7日、享年80。昭和期の好きな歌謡曲をカラオケで歌うと、作詞、作曲のクレジットが画面に現れるが、「あ、これも筒美京平、またも筒美京平か」と気づき、驚くことが多い。しかも曲のスタイルが多様である。
 BSフジが2005年放送の「HIT SONG MAKERS 栄光のJ-POP伝説」を再放送し、稀代の作曲家を追悼した。筒美はほとんどマスコミに顔を出さない人物だったから、ここでカメラに向かいロングインタビューに答えたことは貴重な記録となったのである。また、ともに仕事をした、彼をよく知る人物も多数登場。いくつか興味深いエピソードなど、メモをもとに再現したい(発言通りではなく、それに近い記述)。
 筒美ともっとも多くコンビを組んだ作詞家の橋本淳。筒美は初等部から大学までずっと青山学院に通ったが、橋本は高等部、大学と先輩にあたり、大学の時にはジャズバンドを組む間柄だった。その橋本の回想。学生時代の筒美の印象は、とにかく暗くて、人嫌い。橋本は運動部にいたが、筒美は園芸部。練習が終わって夕暮れ時、橋本が学校から帰ろうとすると、花壇をいじっているのが筒美だった。大学卒業後、橋本はすぎやまこういちに弟子入りする形で、すぎやま邸へ通うようになる。ある時、ピアノが上手い奴がいるということですぎやまの家へ筒美を連れていった。試しに何か弾いてみなよ、ということで筒美が楽譜を渡されピアノに向かって弾き出した。すぎやまは「すごい、何も教えることなどないよ」と筒美の実力を評価した。
 1950年代から60年代初頭、日本のポピュラー音楽界は外国の曲に日本の訳詞をつけてカバーがする(和製ポップス)のが主流だった。弘田三枝子も「ヴァケーション」「砂に消えた涙」など和製ポップス歌手としてデビューした。最初のオリジナルでヒットしたのが「渚のうわさ」。橋本淳・筒美京平の初期コンビ曲だ。筒美によれば、電話もないアパートに橋本から電報が届き、読むと「明日がレコーディング」とある。あわてて作曲し、その譜面を写譜屋へ持ち込んだのが「渚のうわさ」だった。筒美の自筆楽譜も番組で紹介されたが、ミミズのダンスみたいでほとんど読めない。これを解読し、ちゃんとした楽譜に仕立て上げる専門の写譜屋がいたのだ。
 筒美京平という作曲家を強く印象づけたのが、いしだあゆみ歌唱の「ブルー・ライト・ヨコハマ」(1968年)。ミリオンセラーとなり第11回レコード大賞の作曲賞も受賞した出世作だ。いしだあゆみ曰く、プロになって2年目だったが、それまでヒットに恵まれず「(歌が)下手だ」と言われ続けくさっていた。「ブルー・ライト・ヨコハマ」をデビュー曲だと勘違いしている人も多いが、シングル盤で26枚目だったのである。
「ブルー・ライト・ヨコハマ」についても、レコーディングした頃はいい思い出はなかったという。歌番組で初めて歌った時、一緒に出演していた加山雄三が近づいてきて言った。「これ、売れるよ。まいったなあ」。「ブルー・ライト・ヨコハマ」を最初に評価したのは、したがって加山雄三だった。その時、初めて「すごい歌なんだ」と思った。
 番組では、いしだあゆみがギター、パーカッション、フルートという編成のバンドで、アルバム「FANTASY」に収録されたボサノバの佳曲「絵本の中で」(これまた橋本・筒美)を照れたような顔で静かにささやくように歌った。これがなんとも素晴らしく、しばらくユーチューブで繰り返し聴くことになった。
 最後に、私が愛する筒美メロディー10作を挙げておく(順不同)。
堺正章「さらば恋人」、岡崎友紀「私は忘れない」、西田佐知子「くれないホテル」、郷ひろみ「よろしく哀愁」、太田裕美「木綿のハンカチーフ」、ヒデとロザンナ「粋なうわさ」、NOKKO「人魚」、小泉今日子「夜明けのMEW」、南沙織「哀愁のページ」、中村雅俊「海を抱きしめて」
(写真とイラストは全て筆者撮影、作)


『明日咲く言葉の種をまこう──心を耕す名言100』(春陽堂書店)岡崎武志・著
小説、エッセイ、詩、漫画、映画、ドラマ、墓碑銘に至るまで、自らが書き留めた、とっておきの名言、名ゼリフを選りすぐって読者にお届け。「名言」の背景やエピソードから著者の経験も垣間見え、オカタケエッセイとしても、読書や芸術鑑賞の案内としても楽しめる1冊。

この記事を書いた人
岡崎 武志(おかざき・たけし)
1957年、大阪生まれ。書評家・古本ライター。立命館大学卒業後、高校の国語講師を経て上京。出版社勤務の後、フリーライターとなる。書評を中心に各紙誌に執筆。「文庫王」「均一小僧」「神保町系ライター」などの異名でも知られ著書多数。