山頭火没後80年の節目の年に、既に絶版となって久しい『山頭火全集』を再編集し、新しい解説、資料等を増補し、蔵書となるよう装丁も一新、『新編 山頭火全集』として現在刊行中です。
『新編 山頭火全集』刊行を記念し、こちらでは第1巻付き「月報」掲載の詩人・管啓次郎さんの寄稿文を全文紹介します。


山頭火、雑草の詩学 ~管 啓次郎・第1巻月報より

 歩くことは考えることなので山頭火はいつもほとんど誰よりも考えていただろう。空を見て草木を見て道を見て足元を見ることが、すべての考えと同時に進行し考えを左右もしただろう。回想は避けられない。歩くうちに過去は波のように押し寄せてきてかつて見た物ごとはよみがえり、よみがえりつつその像は強化される。記憶から湧き出てくる像は言葉に裏打ちされているが、言葉も幾度となく反復されなぞられるうちにその轍が深くなり、ときにはその轍を新たに切りなおす必要に迫られる。そうして視覚像と言葉の絡み合った記憶を吾知らずのうちに改訂しながら彼はいつも新たに歩くことに向かっただろう。歩くことは出会うことでもあるので過去という巨大な円錐形の先端に位置する一点であるかのようなこの現在はつねに思いがけない力の介入を経験しつづけるだろう。時の中を歩くわれわれはつねに過去だけを見つつ後退りで未来に入ってゆくが、そのせいですべての出会いは思いがけず、すべては驚きとして降りかかってきて驚きが言葉を誘い出すことだろう。
 地形と気象。植物と動物。陽光と、雲、雨、雪という水のフィルターがもたらすさまざまな光。朝と昼と夜、その循環。歩くことは自分を確認する以上に自分を解消する手段でもあっただろう。山頭火を読み、それを「山頭火」という人間の輪郭を埋めるための素材にするよりも、山頭火を読み、彼の言葉をもたらしたそのつどの地水火風の力にまるで自分自身もさらされるかのような思いにかられることも、山頭火のある種の期待――彼が彼の句をもって彼にとっての未来未到の読者たちに対して抱いた期待――に応えることにもなるだろう。詩の役割の大きなひとつに私を解消し私を私という個から外に連れ出し個々の存在をはるかに超えた大きな共同体に接続してくれるということがある。自然力にさらされた作者がその体験を言語的に造形するとき作者はその共同体に入り、作者によって記された言葉にふれるとき読者もまたそこに誘われてゆく。それは結局はヒトという種がこの世の自然力をどのように体験しその記憶を共有するかという人類史の一端であり、「私」を輝かせるための詩とはまったく違った位相において匿名のヒトの生がこの世界を移動しながら試みる生命の実相への探究でもある。
「私は雑草的存在に過ぎないけれどそれで満ち足りてゐる。雑草は雑草として、生え伸び咲き実り、そして枯れてしまへばそれでよろしいのである」と山頭火は書いていた。いうまでもなく雑草という草はなく雑草という呼び名がしめすものはそれ自体途方もない多様性のグループだ。すべての「間」をチャンスと捉えそこに生え育ち暮らす。植物にとっても動物にとっても地上は一時滞在の場所にすぎないが、滞在の短さはかなさ一過性に意味を与えるかどうかはまた別の話だ。生産とか領有とか蓄積とか成果とか系統形成とかには一切無縁に、その場で生きること生えること育つこと、そして生活環をまっとうすることを冒険と考えるなら、雑草の冒険はもっとも平等でありもっとも公平でありもっとも広大な可能性をもっているだろう。山頭火はそれを積極的に試みて、そのための手法が歩くことだった。
 山頭火は歩き、山頭火とともに私=山頭火と名乗る必要すらない匿名のヒトが歩いていた。山頭火とヒトはいたるところで地水火風とその現れにさらされ、その現れを代表するものともいえる雑草に出会ってきた。かれらがもっともしばしば出会ったのは雑草でかれらの身体が実際にふれたのも雑草以上の存在はなかった。雑草という巨大な集合体から見れば、山頭火もアナグマもきりぎりすも蟻も完全に同列に並んだ動物たちだ。山頭火とヒトの流転の旅を、特定の地点を訪ねるのでなくただ雑草から雑草へと自然発生的に延びてゆく道を踏みしめることを目的とする活動だと考えてみることもできるだろう。雑草、それは地表のあるポイントごとに作用する自然力のもっとも端的な表現だ。地に水があれば生え、火に育てられ、風で拡散する。山頭火の詩学(=創作の論理)をぼくは以上に述べたような意味で「雑草の詩学」と呼びたいと思うが、最後に地水火風のために彼の句を例として四句あげ、その心をこの紙上に呼び戻してみよう。
1.土掘る音その音のみのまぶしき陽(『新編 山頭火全集』第一巻327頁)
2.水に雲かげもおちつかせないものがある(『新編 山頭火全集』第一巻147頁)
3.火が燃えてゐる生き物があつまつてくる(『新編 山頭火全集』第二巻掲載)
4.秋風あるいてもあるいても(『新編 山頭火全集』第二巻掲載)
 1では地と火のヒトを介在させた総合がすでになされている。2の雲はいうまでもなく水の集合。ここでは水の影が水に映りヒトの流浪を誘発しようとしているわけか。3では火が体を温めるその熱に惹かれてヒトも他の動物も集まってくる。4は伝統的な感慨かもしれないが気取りのまったくない素直さで道の延長をありのままにうけとっている。こうした短詩を生む山頭火の歩行と雑草の詩学はけっして古びることを知らず、われわれを深く励ますものがつねに新たに湧出してくるようだ。
山頭火研究の第一人者である村上護氏が監修・校訂した全集を基に、山頭火の俳句、日記を全て収録。俳人であり、研究者でもある坪内稔典氏による全巻解説を附す。全8巻のセット函、各巻に巻頭口絵、月報つき。
本のサイズ:四六判/500ページ
発行日:2020/12/10
ISBN:978-4-394-90380-2
価格:4,400 円(税込)