南條 竹則

第9回 食魔と大根【前編】

「食魔」という言葉は、たぶん色魔から来たのだと思うけれど、誰が最初に使い始めたのか知らない。
 この言葉を題名とした小説が、わたしの知る限り二つある。
 一つは野村胡堂の短篇で、初出は「月刊読売」昭和22年10月号。残念ながら駄作の部類で、粗筋を言うと、こんな具合だ──
 海蔵寺三郎という美食家の伯爵がいる。自ら料理をしたり料理人を監督したりして、自邸に客を招き、贅を尽くした宴を開いていたが、世界中の美味を食べ尽くした末に破産してしまった。
 彼は最後に開いた晩餐会のあとに愛するソプラノ歌手松尾葉子を殺して、心臓を食べようとする。しかし、偶然にも葉子は昔の知り合いだった詩人江守銀二に助けられ、伯爵は発狂する。
 もう一つの、これよりも早く発表されて、これよりもずっと優れた小説は岡本かの子の短篇「食魔」だ。こちらは昭和16年に出た単行本『鮨』(改造社)に収められている。
 この小説は主人公の鼈四郎べつしろうが若き日の魯山人をモデルとしていることから、しばしば内容それ自体とは別種の興味を持って読まれる作品だ。
「学歴もない素人出の料理教師」鼈四郎は、燃えさかる野心を持つが、いまだうだつの上がらぬ男である。
 彼は荒木蛍雪という漢学者に取り入り、その家の抱えのようになって、娘のお千代とお絹に料理を教えている。現在、鼈四郎が妻子と共に住んでいるのは、「市隠荘」という家だ。蛍雪が以前寝泊まりしていた離れのような家で、「ちよつとした庭もあり、十二畳の本座敷なぞは唐木が使つてある床の間があつて瀟洒としている。」
 蛍雪は鼈四郎にこの市隠荘を月々わずかな生活費を添えて貸し与えたが、それには条件がついていた。掃除を良くすることと、本座敷は滅多に使わないこと──それで鼈四郎夫婦は次の間の六畳に住まいしていた。
 しかし、使うなという立派な部屋をたまには使いたくなる。
 あられの降る寒い夜、鼈四郎は妻に命じてこの本座敷に夕食の席を設けさせ、ビールを飲み始めた。
 その肴がふるっている。大根ばかりの料理なのだ。
 材料はくりやにあった練馬大根一本。これを一汁三菜の膳組に従って調理する。なますには大根を卸しにし、煮物には大根を輪切りにしたものを鰹節で煮る。焼き物皿には大根を小魚の形に刻んで載せておく。汁の代わりは大根鍋だ。
 この夜の料理は、その鍋が中心で、あとはお飾りと言って良い。

 鍋の煮出し汁は、兼て貯への彼特製の野菜のエキスで調味されてあつた。大根は初冬に入り肥えかかつてゐた。七つ八つの泡によつて鍋底から浮上り漂ふ銀杏形の片れの中で、ほど良しと思ふものを彼は箸で選み上げた。手塩皿の溜醤油たまりれの一角を浸し熱さを吹いては喰べた。
 で純で、自然の質そのものだけの持つ謙遜な滋味が片れを口の中へ入れる度びに脆く柔く溶けた。大まかな菜根の匂ひがする。(『岡本かの子全集』第五巻 冬樹社、300頁)
 これは案外に美味かった。

 彼は盛に煮上がつて来るのを、今度は立て続けに吹きもて食べた。それは食べるといふよりは、吸ひ取るといふ恰好に近かつた。土鼠が食ひ耽る飽くなき態があった。
 その間、たまに彼は箸を、大根卸しの壺に差出したが、つひに煮大根の鉢にはつけなかつた。(同)
 こうして大根を食い終わった鼈四郎、霰の降る夜の庭をながめながら煙草を吸っていると、脳裡に自分の半生が蘇る。
 数奇の生い立ちと幼い日の悲惨。学歴もなく、本式に何かを修行したこともないが、持ち前の器用さから種々の技芸をそこそこにこなし、重宝な使用人のように扱われて送る日々。
 人は自分を便利に使うが、けして尊敬はしてくれない。どうにかして人から尊敬されたいという願いにかられ、やがて書画骨董の目利きや創作に才能を示す。「無学を見透かされまいと、嵩にかかって人に立ち向かう癖が」ついた嫌な性格の男だが、ただ一つ「身も魂も食ものに殉じている」という純粋な面を持っている。
 そして唯一の知音ちいんというべき洋食屋の主人檜垣との出会い。岡本一平・かの子夫婦を彷彿させるある夫婦との芸術的格闘。そして檜垣の壮絶な死。
 思いに耽っていると、夜の闇が今宵はことさらに濃く思われる。

 夜はしんしんと更けて、いよいよ深みまさり、粘り濃く潤ふ闇。無限の食欲を持つて降る霰を、下から食ひ貪り食ひ貪り飽くことを知らない。(中略)こんな逞しい食欲を鼈四郎はまだ嘗て知らなかつた。死を食ひ生を吐くものまたかくの如きか。(同331頁)
 やがて鼈四郎の胸の中で何かがしきりに動きはじめた。彼は酒に弱いけれども今夜は飲み明そうと決めたが、「この逞しい闇に交際つきあつて行くには、しかし、『とても、大根なぞ食つちやをられん。』」
 鼈四郎は、知り合いの料理屋から鮟鱇あんこうの肝か皮剝かわはぎの肝をもらって来るよう妻に言いつける。夜更けの孤独な宴が始まろうとするところで、小説は終わる。
 食魔は、まだ大根の味に満たされる年齢としではなかったのだ。


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この記事を書いた人
文/南條 竹則(なんじょう・たけのり)
1958年生まれ。東京大学大学院英語英文学修士課程修了。作家、翻訳家。
『酒仙』で日本ファンタジーノベル大賞優秀賞を受賞。以後、幻想小説、温泉、食文化への関心が深く、著書も多い。主な著書に、小説『魔法探偵』、編訳書『英国怪談珠玉集』など多数。

絵/橋本 金夢(はしもと・きんむ)