南條 竹則

第10回 シュウマイ・ガール【後編】

 前回述べた通り、『やっさもっさ』は期せずして横浜のシュウマイ産業に寄与した形となり、獅子文六の言葉を借りれば、「横浜駅に列車が着くと、人は争って、シューマイを買う」(「ふるさと横浜」)ことに相成った。
 しかし、横浜っ子である獅子本人はシュウマイに限らず、横浜の中華料理と中華街を知悉していただろう。
『やっさもっさ』の赤松太助が無心なシュウマイ客を代表しているとすると、主人公の志村亮子は作者のような土地っ子を代表している。
 亮子はある日、女学院時代からの友人大西説子と赤松太助を「南京街」での昼食に招待する。

 表通りを、ちょいと曲ると、路地のようにごみごみした、小家が列び、昔ながらの南京街の臭気が、鼻を打った。
「ここよ。汚いのに、驚かないでね」
 亮子は、料理店とも思われないような、小さな入口のドアを押した。昔なら、中国人だけに用のある、貧しい食料品店のような店構えだが、水師閣と、名前だけ立派な看板が、掛っていた。(中略)
「評判の汚い家だけれど、食べさせるものは、おいしいのよ」
 亮子は、注文を聞きにきたオカミさんに、タンとか、ツアとか、もの慣れたあつらえ方をした。
「シュウマイは、できないそうよ。お生憎あいにくさまね」
 彼女は、赤松に話しかけた。
「いや、関わんのです……」
 彼は、また、ハニかんだ。よくハニかむ男である。シュウマイに羞恥を感ずる──(『やっさもっさ』ちくま文庫、113-114頁)
 大西説子という人は一風変わった産児制限論者で、この時もテーブルに着くなり、さっそく亮子に向かって持論の断種説を説きはじめる。そのうち、「鮑のスープと車海老の煎物いりもの」が運ばれて来る。
「ご馳走さん……。やはり、味がちがうわ」というのが説子の感想だった。
 水師閣は「海員閣」という実在の店をモデルにしているが、『食味歳時記』所収の随筆「中華街」に出て来るのも、同じ店だろう。

 そこの主人はもう老人で、ナンキン町時代に有名だった聘珍樓へいちんろうのチーフ・コックだった。この老人は料理も上手だが、実に人間の堅い男である。十数年前に私が小説の中で、この店のことを書いたのを、徳として、今だに仲秋月餅だの、中華風ソーセージなぞを届けてくれる。(『食味歳時記』、中公文庫 250-251頁)
 獅子文六は、横浜と東京の中華料理の変遷を目のあたりにした人だった。「ふるさと横浜」という文章によれば──

 第一次大戦後に、横浜へシナ料理を食いに行くことが、東京人の流行になった時があった。松竹の撮影所が、蒲田にあった頃は、安い円タクに乗って、横浜のシナ料理を食って、本牧で遊ぶという映画人が、ずいぶん多かった。
 事実、その頃の南京町のシナ料理は、ほんとに、うまかった。聘珍樓へいちんろうの全盛時代である。そして、東京のシナ料理は、マズかった。偕楽園かいらくえんのような家を除き、他は問題にならなかった。
 ところが、今日では逆である。東京は、世界で最もウマいシナ料理の食える都会になってしまった。勿論、本場のシナの都会を別にしてであるが、ことに北京料理のウマいのは、東京でなくては食えない。広東カントン料理でも、横浜よりもウマい店が、東京に多くなった。(『やっさもっさ』ちくま文庫、390-391頁)
 ここにいう逆転現象がいつ頃起こったのか詳らかにしないが、東京にも戦前から一定水準の中華料理店があったことは、さまざまな作家の文章から察せられる。
 獅子文六の小説では、『悦ちゃん』に「晩翠」という店が出て来る。正しくは「晩翠軒」のことで、当時都内で評判が高かった。
『悦ちゃん』は1936(昭和11)年から37(昭和12)年にかけて「報知新聞」に連載された。
 主人公の少女悦ちゃんは幼い頃に母を失い、ろくさんとあだ名される作詞家の父と暮らしている。
 その父に再婚話が持ち上がる。碌さんの姉夫婦が、富豪の令嬢日下部カオルとの仲を取り持とうとするのだ。義理の兄である大林信吾は碌さんの意志を固めさせようとして、親子を自邸に招く。

 いつもは、下の茶の間で、お惣菜を食べさせられる。(中略)それだのに、今日はどういう風の吹き回しか、晩翠から支那料理をとって、このお座敷で、ご馳走しようというのである。(『悦ちゃん』ちくま文庫、139頁)
 信吾が燕の巣の鉢を碌さんの方へまわす場面があるから、これは相当本格的な御馳走であることがわかる。
 ちなみに、この『悦ちゃん』には食べ物に関する名言が多い。
 たとえば──「べつに嫌というわけでもないが、特に好きという気も起らない。いわば、卵のおすしを出されたような気持だ。」(同19頁)、「お汁粉が嫌いになったから、ワンタンが好きになるという理窟はない。」(同154頁)。
 きわめつけは、この一言だ。
「世に少きもの、シュウマイの肉にデパート・ガールの収入と、相場がきまってるから仕方がない。」(同279頁)


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この記事を書いた人
文/南條 竹則(なんじょう・たけのり)
1958年生まれ。東京大学大学院英語英文学修士課程修了。作家、翻訳家。
『酒仙』で日本ファンタジーノベル大賞優秀賞を受賞。以後、幻想小説、温泉、食文化への関心が深く、著書も多い。主な著書に、小説『魔法探偵』、編訳書『英国怪談珠玉集』など多数。

絵/橋本 金夢(はしもと・きんむ)