第2回『むらさき』──寒い冬、雪どけののちに春きたる

東海大学教授 堀 啓子

 寒い冬の風物詩、入学試験シーズンもそろそろ落ち着いた頃でしょうか。受験の苦労は古今東西いつの時代も変わらぬものでした。明治の文豪・尾崎紅葉の『紫』は、まさにその受験の辛さを描いた作品です。時を経て、ふと大変だった受験時代を懐旧される大人の皆さんにとって、『紫』は時節に合った感慨深い作品、とご覧いただけるのではないでしょうか。

『紫』とは、不思議なタイトルと思われるかも知れない。
 美しい語彙の選択に特段の自負があった紅葉は、一時期、印象的な一文字タイトルに凝っていた。そのひとつが『紫』である。初登場は明治二十七年。他の多くの紅葉作品同様『読売新聞』の連載小説であったが、半年後に春陽堂から単行本となり刊行。そのとき併録されたのが、硯友社仲間で友人でもあった江見水蔭の『琴』である。互いに漢字一文字のタイトルで並ぶとバランスも良く、洒落た口絵も支持された。後に紅葉は、作品内容を端的に表すタイトルを好むようになる。だが『紫』も一読すれば意図は明快で、これはこれで味がある。

明治二十七年八月、春陽堂版『紫』、扉
(国立国会デジタルコレクションより)

 この作品の主人公は、味木あまぎ静馬しずまという。埼玉県出身の二十六歳で、医師を志し十四歳で上京。そのまま、日本橋で名高い医師の山路やまじ朴卿ぼくけいに師事し、今日こんにちまでに確かな技量も身に着けた。人柄は温厚篤実、柔和な容貌も相まって、代診する患者の覚えもめでたい。ここに、彼が目指すは医術開業試験の合格である。だがなんとも不幸なことに、静馬はこの試験がひどく苦手であった。
 旧事むかしならば山路やまじ朴卿ぼくけい先生出張所の看板をけて、一玄関かまへて可也かなりれるわざはあるのであるが、当今では開業試験を経なければ、礼を取てはこぶに唾をけてやることもならぬ。そこで内務省の試験を受けるといふことになる。静馬も其気で粉骨砕身するのであるが、此人にして此病ありとはうか、其記憶力のどんなことは太甚はなはだしい。であるが、全體ぜんたいの記憶力が遅鈍といふのでは無くて、単にそれが学問上にとどまるとは、なほさら因果である。
 医術開業試験とは、今でいう医師国家試験である。厳密には少し異なるが、これが日本に初めて導入された医師の国家試験制度であった。折しも江戸時代まで主流であった東洋漢方中心の医療が、西洋医学へと移行する過渡期である。医師の職務を重視する明治政府が明治九年に医師試験法を施行し、試験制度を設けたのである。
 さてこの試験の合格を目指す静馬には、多くの応援者があった。師匠である山路医師とその家族、勉強部屋を間借りする従兄夫妻、国許くにもとの両親や許嫁いいなずけ、さらには代診で観る患者達から山路家の使用人に至るまで。なかには面識もないのに噂を聞きつけて同情を寄せ、阿弥陀仏に願をかけて日夜に正信念仏偈しょうしんねんぶつげを唱えてくれる隣家の老婦人までいる。そうまで人望を集め、勉強する環境にも恵まれながら、静馬はなぜかなかなか試験に通らなかった。
 当時、この試験は前期と後期の二回、課された。静馬は五度目のトライで辛くも前期をクリアしたが、後期試験へのチャレンジも既に三度目を数えている。師匠の山路医師は寛容で、試験がこれだけ不首尾に終わってもまるで動じない。

先生はただの一度「またか」と言つたことも無ければ、不興な顔色かおつきを見せたことも無い。うそのやうに快闊な調子で、
慢々ゆつくりやれ、大器は晩成だ。」と機嫌よく笑ふ。
奥様は奥様で、わざと手軽に、
「おやさうでしたか。又この秋がありますわね。」と慰める。
 一見これほど恵まれた話もなかろうが、真面目な静馬にはかえって「それが実にきもこたへる、毒舌の熱罵より肝に徹へる」というものも、わかりやすい。
 だが今度の四月、三度目の挑戦を控えた静馬に、とうとう国許の両親は引導を渡す。曰く、今度落ちたら親子の縁を切り許嫁の娘に婿をとって跡継ぎにする、というのである。もとより勤勉な静馬は寸刻を惜しんで勉強していた。だがこうして退路を断たれた今、静馬は今度落ちたらもはや死のうと悲壮な覚悟を固める。今までも必死だったが、今はそれ以上である。もくもくと勉強し、粛々と時が流れる。

『官報』(明治十六年十月二十三日)掲載の「医師開業試験規則」(太政官布達 第三十四號)には、試験科目も明記されている。(国立国会デジタルコレクションより)

『紫』は、一人の受験生が寝食を忘れ、ひたすら勉強に打ち込むだけの日々を描いた作品である。水垢離みずごりをとり、悪夢に悩まされ、見る影もなくやつれながら机に向かう。そんな静馬の苦行の日々に重ねられるのは、静馬を案じてやきもきし儚い辻占に一喜一憂する、周囲の小さな日常である。そしてこの単調な季節のうつろいは、紅葉らしい美文にこう綴られる。

 却説さるほどに昨日と過ぎ、今日と暮らし、寒い/\といふうちに蒲田の梅が開く、上野の彼岸桜が咲初める、それ白酒を売出す、蝶々が飛ぶ。三月もやう/\尽きなむとするほどに、味木静馬が生死のさかいは波の寄するが如く、一歩は一歩よりせまり来る。
 のどやかに春めく風物に、審判の時が刻々と近づく切迫感。ピリッとした対比が効いている。

蒲田の梅林と上野の桜は江戸時代から、花の名所として知られ、広重の画にも描かれていた。(左『名所江戸百景』安政四年、右『東京名所之内上野公園地桜花盛之景』明治十三年、ともに国立国会デジタルコレクションより)

 さて、いよいよ明後日が試験という夕べ、静馬は山路先生宅に挨拶に出向く。「今生の別れ」かも知れないと沈む静馬だが、首途かどでのはなむけにと先生の娘から手製の肘つき(卓上等に置く肘布団)を贈られ、風向きが変わる。その肘つきの色は、紫。及第通知はがきと同じ色にしたのは、縁起をかついだ作り手の、心尽くしであった。
 悲壮であり、一面コメディカルでもある。ただ『紫』は、必死に頑張る人を包みこむ、周囲の優しさ温かさも忘れない。試験の前夜、静馬は長い吉夢きちむを見る。その間、響いていたのは隣家の婦人のいつもの正信念仏偈である。それは静馬のための、いつもの祈りの読誦であった。
 その後、詳細は描かれることなく、あっさりした一文が作品を締めくくる。

やがて五月廿日はつかゆうべ、吉事殆ど此夢の如く、今築地一丁目に正信せいしん医院といふのが其である。
 春は来たのである。

【今月のワンポイント:医術開業試験の倍率】 

『読売新聞』明治二十六年七月二日の雑報記事。「第一回医術開業試験の結果」に続き、手数料改正のため「医師志願者減ず」という記事が掲載されている。『紫』にも描かれた通り、受験料も度重なるとかなりの負担であった。

 この作品で、「自分は学術より実地の方がけてゐるのだから、かうして代診生こそしてゐるけれど、其辺そこらに開業してゐる学士連中と立並んでも、腕尽うでづくならば決してひけは取らぬ。」と静馬が嘆いたように、大学出の学士たちはこの試験が免除されていた。
 いっぽう大学に行かず医師になるには、この試験に合格せねばならなかった。野口英世もこの試験に合格し、医師になった一人である。彼が後期試験に合格したのは『紫』連載の三年後のことだった(前期の合格は前年)。
 なお、この試験の難易度は相当なもので、『紫』の前年にあたる明治二十六年の前期試験の受験者は一七二六人、うち合格者は二六五人で全体の約十五%である。合格率は概ねこのあたりで推移し、この難関試験のためにいくつもの受験予備校が誕生した。後にこれらの予備校を前身として創設された教育機関に、現在の日本医科大学や東京慈恵医科大学がある。

※引用は全て『紅葉全集』(第五巻、岩波書店)をもとに、一部改変した。

『春陽堂書店 発行図書総目録(1879年~1988年)』春陽堂編集部(編)
春陽堂が1879年~1988年に発行した図書の総目録です。
書名索引付き、747ページ。序文は春陽堂書店5代目社長・和田欣之介。
表紙画は春陽堂から刊行された夏目漱石『四篇』のものをそのまま採用しました。


この記事を書いた人
堀 啓子(ほり・けいこ)
1970年生まれ。東海大学教授。慶應義塾大学文学部卒業。慶應義塾大学大学院文学研究科博士課程単位取得、博士(文学)。日本学術振興会特別研究員(PD)を経て、現職。国際児童文学館 令和2年度特別研究者。専門は日本近代文学、比較文学。2000年に尾崎紅葉の『金色夜叉』にアメリカの種本があることを発見、その翻訳『女より弱き者』(バーサ・クレー著、南雲堂フェニックス、2002年)も手がけた。主な著書に、『日本近代文学入門』(中公新書、2019年)、『日本ミステリー小説史』(中公新書、2014年)、『和装のヴィクトリア文学』(東海大学出版会、2012年)、共著に『21世紀における語ることの倫理』(ひつじ書房、2011年)などがある。