第15回:藤森成吉『相恋記』促音の「ツ」と「つ」

清泉女子大学教授 今野真二
 藤森成吉せいきち『相恋記』(【図1】表紙)は昭和3(1928)年4月10日に発行されている。【図2】は奥付であるが、「著作者検印」として「ふぢ/もり」という、ちょっとかわいらしい感じの方形朱印がおされている。筆者所持の本は小口が揃っておらず、小口の三方を切り落とさないで製本した「アンカット本」として出版されたのではないかと思われる。

【図1】

【図2】

 藤森成吉(1892~1977)は、長野県諏訪郡上諏訪町(現在の諏訪市)に生まれ、東京帝国大学在学中に自費出版した『波』で注目された。社会主義文学運動にも参加し、日本プロレタリア作家同盟(ナルプ)の設立時には初代委員長になっている。【図1】でわかるが、本書の表紙の色とデザインもプロレタリア文学、大衆運動を思わせる意匠といってよいだろう。装幀担当者は鶴丸昭彦で、表紙の左下には「ツる丸」とある。
「著者序言」には「此新集所載の戯曲は、すべて今年初頭発表した物である。その二篇が上演された。巻頭の舞台写真の説明旁々、簡単にその記録を書いて置きたい」とある。「旁々」が「カタガタ」を文字化したものであることは案外とわかりにくいかもしれない。しかしこれは筆者が使っているフロントエンドプロセッサーには「カタガタ」の変換候補としてあげられている。
 いろいろな原稿を書き、明治期や大正期に出版された本の「原文」をパソコンで打ち込んでいると、「ある語を入力しても、原文の漢字列が変換候補となっていない」というようなことがよくある。そういう時にも「なるほど」と発見がある。
 本書には「相恋記」以下「門出」まで14の作品が収められている。【図3】は「相恋記」の1頁14行分である。7行目から14行目までを翻字してみよう。振仮名、傍点は省く。

【図3】

喬生。(よろこんで)出来れば、他人からいろんな臆測をされる心配がなくて、僕もどんなにいゝか知れない。――(不安さうに)が、来たツて御覧のとほりの貧乏所帯ですよ。今までのあなたの生活とは何から何までちがつてます。此の寝台からしてドツサリ南京虫がゐて、今だツてきツと食はれてゐらツしやるんです。それを覚悟してゐらツしやる?
淑芳。(笑ひ出して)ほゝゝ……そんな事、とツくに覚悟してますわ。あたし、今までのお嬢さん生活には倦き\/〈※おどり字・くの字点―筆者註〉しましたの。いゝえ、そんな物第一、生活なんて云へませんわ。いつ迄もあんな世界にゐるんだツたら、あたし死んだはうが増しですわ。だツてうそばツかしで、真剣な事なんて(小指を立てゝ)これツばかしだツてないんですもの。あなたの御力で、あたしほんとに生き甲斐のある新(17頁)
 ここでは「うそばツかし」とある直後に「これツばかし」とあって、「バッカシ」と「バカシ」が隣接して使われている。20頁には「だが湖西ツてばかりで」とあって、ここでは「バカリ」が使われている。
「バカリ」「バッカリ」、「バカシ」「バッカシ」は促音が加わった語形がやや強い語気をあらわし、かついくらか非標準的であろう。異なる語形が隣接して使われているおもしろい例だ。
 17頁でいえば、「キツと」(5行目)「来たツて」(8行目)「今だツてきツと食はれてゐらツしやるんです。それを覚悟してゐらツしやる?」(9~10行目)「とツくに」(11行目)などの「ツ」は促音をあらわしていると思われる。その一方で、「くれなかつたら」(4行目)、「何から何までちがつてます」(9行目)の「つ」も促音をあらわしているはずで、促音に「ツ」「つ」があてられている。現時点では、両者に違いがあるようにはみえないが、なんらかの言語事象を反映したものであろうか。
 読み進めると、この語は現代日本語ではあまり使わないだろう、と思うような語に時々いきあたる。「その看客に向ふ戸口は任意に開閉、又照明を以て隠顕するがいゝ」(2頁)の「インケン(隠顕)」の語義はもちろん「隠れたりあらわれたりすること」であるが、ほとんど使われていないだろう。あるいは「気先きを折られて」(9頁)の「キサキ(気先)」も「出端をくじかれて」ぐらいの意味であることはわかるが、あまり使われない表現といえよう。
 文字化ということでいえば、17頁には「ドツサリ」とあるが、他に「フン縛られそうにはなる」(10頁)、「テンデ改まりやしない」(同前)、「アツケに」(24頁)、「壁のキズの一部」(28頁)などもある。オノマトペ、オノマトペから転じた副詞などが片仮名で文字化されているようにもみえるが、それですべてが説明できるわけでもない。もちろん外来語も次のように片仮名で文字化されている。
張老人。ヴァンパイア以上ぢや。骸骨ぢや。肉も血も吸ふ女骸骨ぢや。
喬生。えつ?
張老人。そうとも知らず、毎晩あんたはゝゝゝゝゝゝゝゝゝゝゝゝゝゐるんぢや。(32頁)
 13つながっている「ゝ」はいわゆる「伏せ字」であろう。本書にはこうした箇所が何箇所かある。「伏せ字」は検閲のためにそうなっていると思われやすいが、印刷前だからこそ「伏せ字」になるのであって、基本的には出版社、著者側の「自粛」とみるべきであろう。
(※レトロスペクティブ…回顧・振り返り)

『ことばのみがきかた 短詩に学ぶ日本語入門』(春陽堂ライブラリー3)今野真二・著
[短いことばで、「伝えたいこと」は表現できる]
曖昧な「ふわふわ言葉」では、相手に正確な情報を伝えることはできない。「ことがら」・「感情」という「情報」を伝えるために、言葉を整え、思考を整える術を学ぶ。

   ≪関連書籍紹介≫

『人魚の嘆き・魔術師』(春陽堂書店)谷崎潤一郎・著
大正8年8月に春陽堂から水島爾保布におうの装画20点余りに飾られ、大型本として刊行、 乱歩や横溝が心酔した谷崎の初期小説2編が100年の時を経て豪華装丁で完全復刻!

この記事を書いた人
今野 真二(こんの・しんじ)
1958年、神奈川県生まれ。清泉女子大学教授。
著書に『仮名表記論攷』(清文堂出版、第30回金田一京助博士記念賞受賞)、『振仮名の歴史』(岩波現代文庫)、『図説 日本の文字』(河出書房新社)、『『日本国語大辞典』をよむ』(三省堂)、『教科書では教えてくれない ゆかいな日本語』(河出文庫)、『日日是日本語 日本語学者の日本語日記』(岩波書店)、『『広辞苑』をよむ』(岩波新書)など。