【第50回】


ゴッホの死因
 映画『永遠の門 ゴッホの見た未来』(2019年)を観た。監督は『潜水服は蝶の夢を見る』のジュリアン・シュナーベル。画家フィンセント・ファン・ゴッホの伝記的事実を交えて晩年を描いているが、いわゆる「偉人伝」のような伝記映画ではない。もっぱら華麗な映像と内面描写で天才表現者の姿を画面に定着させている。つねに揺れる不安定なカメラ、フィルターをかけているのか、ときに画面下半分が曇ったように映る手法など、ストーリーやセリフより、もっぱら映像で語る作品である。
 ゴッホを演じるのはウィレム・デフォーだが、これが実物そっくり(と言って、実物を見たわけではない)。映画では晩年、南仏アルルで過ごした時間を描く。生前は絵がまったく売れず(たしか1枚だけ売れた)、パリ在住の弟、画商のテオの援助で生活していた。テオとの膨大な書簡のやり取りが『ゴッホの手紙』であり、小林秀雄は自ら抄訳しつつ論じた著書のタイトルにもしている。
 享年37の死が拳銃自殺による(傷が悪化)ものであることは知られているが、私が『永遠の門』で、あれ? と思ったのは、子どもがいたずらで撃った弾によるという解釈になっていたことだ。映画では、断末魔にあってゴッホは子どもをかばっている。そのことで死因が謎に包まれたようだ。私はそのあたりの事情についてはまったく知らなかった。
 美術関係の本が並ぶわが本棚を見ると、「『知の再発見』双書」(創元社)の一冊、パスカル・ボナフー(嘉門安雄監修)『ゴッホ 燃え上がる色彩』を発見。その生涯をコンパクトにまとめるとともに、写真や絵の図版が多数収録されていて便利だ。
 問題のその日、その時間。1890年7月27日の暑い日曜の午後、ゴッホ(本書ではフィンセントで統一されている)は畑の中にいた。
「この日、フィンセントが『どうにもならない! どうにもならない!』とつぶやきながら、畑のあいだを歩きまわっていたのを近くの農民が目撃している。日が暮れてオーヴェルの城(中略)の近くまできた彼は、ポケットからピストルを取り出し、胸に向けて引き金をひいた。しかし、弾丸は急所をそれ、傷は致命傷にはいたらなかった」
 即死ではなく、部屋に戻ったゴッホをオーヴェルでの庇護者だった医師のガシェ(ゴッホによる肖像画あり)が診察、「弾丸を摘出しようとしたが、弾が心臓の近くにあるため、取り出すことができない」。28日の夜、容態が悪化し息を引き取った。これがゴッホの死の定説である。小林秀雄『ゴッホの手紙』(新潮文庫)でも、死の記述はこの定説に沿っている。
「七月廿七日の午後、オーヴェルの丘で、一通行人は、木に登っているゴッホの姿を見た。彼が『とても駄目だ、とても駄目だ』と言っている声を聞いたという。自殺の現場を見た人はいない。彼は心臓を狙ったが、弾は外れた」
 ここで「自殺の現場を見た人はいない」ことが、のちに死亡原因について諸説生むことになった。『永遠の門』の、子どものいたずらで撃たれたという説もその一つ。そもそも、確実に自殺するなら拳銃は頭か、口の中に突っ込んで撃つ方が確実なはずだ。左胸から入った弾丸は、じつは「心臓近くにあるため、取り出すことはできない」のではなく、体内を通って下腹あたりで留まったという説もある。それなら外科手術で摘出可能である。ところがガシェ医師の専門は精神科であった等々。シャーロック・ホームズを招聘したくなるが、結局、真相は闇の中なのである。


死んだ男の残したものは
 谷川俊太郎の詩に武満徹が曲をつけた、そういうタイトルの曲がある。ここで今、私が机の上に広げているのは、古書即売会で買った紙もの一式。「死んだ男の残したものは」だ。いつどこで買ったかは覚えていない。最近はこの手の、本以外のものに手を出すことは少ないが、一時期は面白がって、時代の破片ともいうべき「紙もの」をよく買っていた。

 全部で10点のこまごました紙が、ビニール袋に入れられていた。一人の人物から出たものかと思われる。本に挟まっていたものであろうか。古本屋を経由していることから考えるとどうもそうらしい。古本屋は買い取った本をそのまま売らず、落丁や書き込みなどをチェックする。その際、ある店主が挟まっていたものをすべて取り出し、1つの袋に入れ値段をつけたと考えられる。
 一人の男が、どんな人生、日常を送っていたかが、これら断片から想像できる。名刺が入っていたので人物は特定できるが、ここでは名を秘す。一番数が多いのはマッチラベル。京橋区岡崎町の薬店「仁成堂」、丸の内「帝国飛行協会」、市外渋谷町上通三丁目「明治銀行渋谷支店」。1枚だけ大阪・西天下茶屋の理髪店「葵館」がある。渋谷がまだ「市外」であったこと、「帝国飛行協会」ラベルに「太平洋横断 無着陸飛行」の文字があることから見て、昭和初期のものかと思われる。朝日新聞社が賞金をつけて「太平洋無着陸飛行」を呼びかけたのが昭和6年(1931)だった。
 ほかキャラメルの箱に入っていたか、森永製菓と文字が小さく入った2つの旗が描かれたカード。「三越」とある上部に穴が開けられた硬券には「金弐円参拾銭」のハンコが捺され、洋服の値段票か。やや大きめの紙は「最も安く最も親切な店 宮内薬局」(銀座)。横書き文字が右から左へ、となっている。これが左からと現行の通りになるのは、だいたい敗戦後のことだ。
「井頭公園ボート使用券」も貴重な1枚。「二人乗一時間使用 金三十銭」とある。右に9時から6時の数字が並び、「3」にパンチ穴が入っている。某氏は午後3時、おそらく女性(妻とも考えられる)と井の頭公園でボート遊びをした。昭和5年のラーメンが10銭。ボート1時間「三十銭」は、そこから現在の物価に換算すると1500円~2000円近くしたことになるか。高いですねえ。ちなみに現在、井の頭公園のボート利用料金は、大人3人まで1時間700円である。
 最後に紹介したいのがタテ6・4センチ、ヨコ9・1センチの『今昔歌集 今昔歌曲』と書かれた小冊子。軽量で和服の袖にも収まる。文字はすべてガリ版刷りで、「炭坑節」「熊本おてもやん」「土佐ぶし」「新版 異国の歌」など、民謡や軍歌が並ぶ。ただし、どれもが替え歌で中身は「エロ」すなわち春歌だ。引用がはばかれる直接的な性的言語が連打されている。宴会などで酒を飲み、酔っ払ってくるとこれを取り出して放吟する男たちがいた。
 これら紙ものの持ち主は高等女学校の教壇に立ち、商工省鉱山局に勤めるお役人であったが、酒宴では春歌の1つも歌ったのである。私はいいと思いますよ。

春の観覧車
 風の強い春の某日、急に思い立って休園中の西武ゆうえんちへ観覧車を見に行った。
 西武ゆうえんちは、2021年リニューアル再オープンを控えてただいまお休み。それでも目の前まで行って観覧車が見たいなあと不意に思った。思って行動に移すことが大切で、重大ではないささいなことを億劫がって見逃すと、生活が痩せてしまう。まあ、フリーという身分の気楽さはもちろんある。平日の昼間の話である。
 西武国分寺線で国分寺駅から西武遊園地(現・多摩湖)駅までは約20分。あっというまだ。改札を出て階段を上がると、すぐ目の前に柵で閉ざされた遊園地があった。すぐ巨大な観覧車が見えた。もちろん止まったままである。私は自転車で少し遠出して、東村山市西側(野口町、多摩湖町、廻田町めぐりたちょうあたり)をよくうろつくのだが、ほとんどの場所から、遠く、この観覧車が見える。この周辺、畑と雑木林と低層の住宅地で、遮るものがないのだ。
 後ろに所沢の丘陵地を従えて、遊園地の開園中には観覧車がゆっくり回るのが自転車を止めると確かめられた。カラカラときしむ車輪の音が聞こえるようであった。それは好きな光景だった。
 今回、動かなくなった観覧車をしばらくじっと見ていた。思えば、結婚してすぐ住んだ川崎市多摩区宿河原からも、丘陵地にあった向ヶ丘遊園の観覧車が眺められたものだった。向ヶ丘遊園は2002年に閉園、観覧車を含む遊具も撤去された。私はその前に別の町に引っ越していったので、閉園前後のことは知らない。
 松任谷由実の曲に「かんらん車」があり(アルバム『流線形’80』所収)、あれは二子玉川園の観覧車をモデルにしているとの話だが、二子玉川園もまた1985年に閉園している。なくなってもなんとなく頭の中では大きな観覧車がいつまでも回っている。

 福井優子『観覧車物語』(平凡社)は、日本で唯一無二の観覧車研究書で調査の徹底と図版の豊富さにおいて完璧な書である。栗木京子の「観覧車 回れよ回れ 想ひでは 君には一日 我には一生」は、観覧車を歌い込んだもっとも有名な短歌のひとつだ。
(写真とイラストは全て筆者撮影、作)


『明日咲く言葉の種をまこう──心を耕す名言100』(春陽堂書店)岡崎武志・著
小説、エッセイ、詩、漫画、映画、ドラマ、墓碑銘に至るまで、自らが書き留めた、とっておきの名言、名ゼリフを選りすぐって読者にお届け。「名言」の背景やエピソードから著者の経験も垣間見え、オカタケエッセイとしても、読書や芸術鑑賞の案内としても楽しめる1冊。

この記事を書いた人
岡崎 武志(おかざき・たけし)
1957年、大阪生まれ。書評家・古本ライター。立命館大学卒業後、高校の国語講師を経て上京。出版社勤務の後、フリーライターとなる。書評を中心に各紙誌に執筆。「文庫王」「均一小僧」「神保町系ライター」などの異名でも知られ著書多数。