南條 竹則

第12回 酒鮨【前編】

 鹿児島空港から車で行けばさほど時間のかからないところに、天降あもり川に沿っていくつもの温泉場が点在している。
 妙見温泉はその一つだ。
 もう三十年近く前のことになるが、わたしは鹿児島の友人に会いに行く際、何度かこの温泉に滞在した。
 一番長く泊まったのは「おりはし」という旅館で、気持ちの良い露天風呂とわたし好みの地味な内湯があった。花木の植わった広い庭の中に、母屋と湯治棟、浴場などが並んでいる静かな湯治宿だった。
 ある年の春、ここに半月ばかり滞在した折のこと。女将さんが、
「こんなもの、召し上がりますか」
 と言って、「酒鮨」を分けてくれた。
 米の飯に色々な生魚を入れ、紅い地酒をかけたもので、西郷さんの好物だったという。酒はかなり甘く、不思議な味だった。わたしは概して甘口の料理が苦手だけれども、なぜかこの「酒鮨」は食べられた。食べ終えると、どんぶりの底に、葡萄酒のような赤紫の汁がたっぷり残っていた。
 獅子文六の『食味歳時記』を読んだ時、この珍しい食べ物が出て来たのに驚いた。
 その話は同書所収の随筆「春爛漫」に書いてある。それによると、獅子文六は昭和16年の2月、長篇「南の風」の取材のため天草から鹿児島へ行き、約十日間鹿児島に滞在した。
 彼はこの土地の自然や風俗に魅力を感じ、食べ物にも関心をおぼえた。「郷土料理の豚骨とんこつ春羹しゅんかんなぞは、ちょうど寒い頃だったので、味もよく、物珍しかった」が、「まだほかに、土地の料理はありませんか」と市の観光協会の人にたずねると、例の「酒鮨」を教えてくれた。
 その人の家が酒鮨に使う地酒の醸造元なので、御案内致しましょうかという。行ってみると、案内人の母親が色々と教えてくれて、「酒鮨」の見本を作ってくれることになった。
 翌日の正午頃、案内人氏がそれを宿へとどけに来た。
「これが、酒鮨の桶なんです」
 と、彼はいささか誇らしくいったが、厚い木の巌丈そうな、黒塗りの桶に、これも巌丈な竹のタガが嵌り、黄漆が塗ってあり、見るから、民芸味が豊かだった。そして、厚い蓋をとって見せると、裏側の朱色の美しさは、何ともいえなかった。琉球の赤漆を、使ったものだといった。
 私は容器の美しさに見惚れ、内容の方は閑却してたが、茶碗に盛られたものには、鯛のソギ身や、エビや、バカ貝や、サツマ揚げや卵焼のようなものが入ってて、なかなか賑やかだった。しかし、まるで地酒の茶漬けのように、酒に濡れ、酒の香がプンプンするのには、やや閉口した。
 とにかく、一口、食って見た。甘くて、鮨の観念から遠い味で、ウマいとも思わなかったが、一杯を食い終ると、もっと食って見たくなった。そして、遂に、三杯半を平げた。その頃は、私の胃袋も丈夫だったが、それでも、飯は二杯ぐらいが、普通だった。つまり、何か、後をひく味があったのだろう。(『食味歳時記』中公文庫、54-55頁)
「酒鮨」は春のもので、この時は二月だったからまだ材料が揃わず、本式ではなかった。けれども、獅子文六はこの味覚の体験に満足し、東京へ帰ってからも人に語った。
 彼は戦後、「週刊朝日」の取材でまた鹿児島を訪れる。
 4月の初めだった。
 今度は本格的な「酒鮨」が食えると思って、朝日新聞の支局の人に斡旋を頼む。ところが、戦後の鹿児島はガラリと様子が変わってしまい、古風で厄介な郷土料理はつくる者がなくなっていた。あの見事な鮨桶も戦災で焼けて、市中に残っているものはわずかだという。
 たった一人、料理学校の校長先生(女性)が学校でつくってくれるというので、獅子文六は翌日、その学校へ行った。
 前もって準備ができてたらしく、私の前へ見事な鮨桶が、列べられた。地酒の香りが、鼻を打った。桶の中は、友禅模様のように、色彩の豊かな具が、ギッシリ詰まってた。具の魚介は、十数年前とそれほど変りはなかったが、今度は、季節の酒鮨だけあって、タケノコと木の芽が、入ってた。それも、添加というような、生優しいものではない。飯は三層になってて、一層は桶一ぱいに木の芽の青さ、他の一層はタケノコの黄、最上の層は、あらゆる魚介である。実に美しく、且つ、豪宕ごうとうの気分がある。木の芽をそんなに多量に使用するところが、サツマ人の神経らしく、面白かった。
 そして、食べてみると、木の芽と地酒の香りで、せそうになり、タケノコの触覚と、エビや鯛やサヨリや貝類や、サツマ揚げや卵焼との味と混合して、まるで、陽春そのものを、口の中へ入れた感じだった。
「こんな鮨は、食ったことがありません」
 同行の記者も、讃嘆した。(前掲書57-58頁)
 陽春そのものを口に入れる――じつに豪儀な話である。
 獅子文六は校長に「生徒さんに、よく教えて置いて下さい」と頼むが、
「いえ、誰も、教わろうとする者が、おりません。皆、グラタンだとか、炒飯だというものの講習は、熱心ですが……」と校長は答えた。
 それでも、この料理は結局絶滅しなかったわけである。もっとも、わたしがめぐり合ったのはこんな本式のものではなかったし、なにしろ三十年も昔のことだが、あの春の味覚が今でも鹿児島に残っているなら、もう一度行ってみたいと思う。


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この記事を書いた人
文/南條 竹則(なんじょう・たけのり)
1958年生まれ。東京大学大学院英語英文学修士課程修了。作家、翻訳家。
『酒仙』で日本ファンタジーノベル大賞優秀賞を受賞。以後、幻想小説、温泉、食文化への関心が深く、著書も多い。主な著書に、小説『魔法探偵』、編訳書『英国怪談珠玉集』など多数。

絵/橋本 金夢(はしもと・きんむ)