第4回『袖時雨』──春過ぎて夏にうつろう宿縁

東海大学教授 堀 啓子

 ゴールデンウィークも明け、さわやかな初夏の風薫る季節となりました。ただ暦の上では夏と言えば、四月からが始まりです。そんな四月は意外にも、前年の穀物が尽きて新しい穀物がまだ実らない時節、〈乏月ぼうげつ〉と称されました。日常が変容し、夫婦やパートナーのあり方にも新しい風が吹きこんでいる今、少し足を止めてみると昔の慣習に見えてくるものもありそうです。

 ちょうど今のような、よい時節でもあったのだろう。
春も暮行く日の駘蕩うらゝかさ、庭の垣根に躑躅つゝぢの咲初めたるはいろ目覚めざましく、山吹は少し遅れて、去年種捨うゑすてたる花菖蒲の芽萌めざせしが、かたばかりの花を持ちたるもしほらしく、隣の庭境には葉桜若楓、梅は葉蔭はがくれに実を持ち、栗はまだ花に早く、榎槐葉えんじゅ繁茂しげり夏も近し
 今日は日曜ということもあり、前の通りは多くの人出でにぎわっている。なかでもひときわ目立つ人力車を並べた一組の夫婦が通り過ぎた。紳士は我が夫と同じような身分だろうか、だが美しい妻は我が身とはまるで違う。そんな思いで羨まし気に見送ったのは、尾崎紅葉作、『袖時雨』の主人公・としである。この作品は明治二十四年の五月から『読売新聞』に連載され、特に女性に愛読された。

『読売新聞』明治二十四年五月十二日の一面。創刊五千号記念を飾ってスタートする連載小説として、華々しく予告された。

 敏は、若く貞淑な妻だった。夫の理輔りすけは真面目な官員で、今でいうエリートである。もとは同郷の従兄妹同士だが、あるとき理輔が孤児となる。それを憐れんだ敏の両親が理輔をひきとり、敏と共に育てあげた。二人は仲良しの筒井筒、すなわち幼馴染として成長し、理輔は東京の大学を卒業した暁にはと、敏の両親から娘を託される。恩義ある家付娘をめとるのは、功成り名遂げた証とされ、当時はよくあるためしであった。
 だが長じての理輔はどうしても敏が気に染まない。ひとつには、姿のよい理輔が敏を不釣り合いに感じ始めたゆえである。義理と恩に絡められ、約束通り妻にはしたが、敏のすることなすこと気に入らない。事あるごとに邪険にあたるも、敏は周囲からも褒め者の、できた妻である。じっさい敏は夫の非道な仕打ちにも、

才気あるが上に人品じんぴんすぐれ、学問も該博ひろく官位もひくからず、申分なき理輔りすけほどの男を夫に持つ身は、応じて標致きりやう美しく心利きて、裁縫ぬひはり学問諸礼遊芸まで、一通の修練たしなみなくてはかなはぬ事なるに、此身は草深き田舎の生育そだち。なるほど下女婢げぢよはした水仕業みづしわざより外に能なき女子をんなにして、かゝる男を夫に持つ事不釣合ふつりあひとはいひながら、冥加に余れる仕合しあはせなれば、気に入られずして数の憂目うきめを見るも、恨むは此方こなたの不心得なり。
と胸をさすって耐え忍ぶ。

『袖時雨』表紙(駸々堂、明治二十七年、初版)。作者の号に因み、紅葉を散らした意匠となっている。(著者所蔵)

 いっぽう理輔も、敏の両親への恩義は片時も忘れない。ましてその恩人夫妻が他界した今、恩を返すべきはその愛娘の敏である。それは百も承知の理屈だが、どうしても想いが添わずに苦悩する。それゆえ理輔は理輔で、

いさゝかの罪なく山海さんかいの恩ある妻に辛くあたるは、鬼畜に等しき所為ふるまひなり。ひろき天地に所恃よりどころなかりし孤児の理輔、もし敏が双親おや慈恵めぐみなかりしならば今は何にか成りたらむ! (中略)我不義不徳の所業しよげふを悔ひ、彼が不幸不便ふびんの身上をあはれみ、従来これまで重ねたる不了簡ふれうけんの段々を臆起おもひいだせば、我心我わがこころわれを責めて慚愧ざんぎの冷汗わきに流れ額に垂れ、思はず我膺わがむねうツて不義の奴をこらせど、なほ世間にはづかしく
と尽きない悩みで眠れない。ついに「明日からは魂魄たましひを入換へ、生れかはりたる気になりて、無理にも彼をいとしがりて、睦まじき夫婦」になろうと決意もするが、翌朝目覚めるとまた「何の為の女房ぞ! きょろりとして火鉢の側に居るばかりが役ならば猫でも用は足る」と声を荒げ、敏を号泣させてしまう。
 この当時、夫婦の立場は圧倒的に夫が強かった。江戸時代、俗に「三行半みくだりはん」という離縁状は、離婚事由と再婚許可文言を三行半で書いたことに由来する。庶民の慣習として、夫から妻あるいはその父兄宛てに書かれたもので、原則として離婚を切りだしうるのは夫だけに与えられた特権であった。去り状や退き状ともいう、たった三行余りの紋切り型の文面が、妻に黙って身を引かせ、その人生を大きく左右した。じっさいには協議離婚が多かったが、やはり決定は夫に分があった。受け継がれたこの慣例と、健在であった家制度は、明治の妻たちの悲劇を多く生み出した。 
『袖時雨』の悲哀は、そんな慣習に深く根差したものだった。

『袖時雨』口絵と作品冒頭(同前)。理輔の居る次の間に控える敏の姿が憐れを誘う。(著者所蔵)

 敏と理輔は、共に極めて律儀で生真面目だった。それがこの夫婦の最大の不幸である。夫の心がいつか自分に添うことを待ち続ける妻と、ひたすら妻に向き合おうと努めるも適わない夫。美貌の夫が、美しく高貴な令嬢たちに見初められていると知り、焦燥する敏にとっては、身分は無くとも愛妻家の八百屋の妻さえ羨ましい。そんな敏には、忠実な女中や理輔の親友、事情を知って上京する伯母も味方をする。
 だが理輔の気持ちは変わらず、とうとう離縁を切り出される。理輔は、恩返しになると思えば「其方が為とならば理輔は命をも捧ぐべし」としつつも、


余所よその色香に心移して其方そちを疎むといふにもあらず、又其方にしてもらるべき過失おちどのありといふにもあらねば、いはゞ相互潔白たがひにきれいなる身にして、此離縁いさゝかも天地にはづる所なし。ただ添ふべからざる縁の不図ふとむすばりたるを今悪縁あくえんと心着き、解いて旧時むかし二条ふたすぢに返すと想はゞ何の事はなかるべし。
と理詰めで説き、謝罪と自身の不面目に、敏への今後の支援についても畳みかける。そして行きどころもなく「婢女部屋をんなべやの隅へなりとも引込みまして、蔭にてお世話しとうござります」と嘆く敏を無情に振り切り、そのまま別居に踏み切っていく。
 そんな理輔の仕打ちに、敏も涙ながらにこの縁を諦める。だがとうとう悲哀と絶望が、敏の精神を蝕んだ。彼女なりのささやかな抵抗とも思われた結末に、多くの女性読者も紅涙を絞ったのである。

【今月のワンポイント:紅葉の結婚】 
 『袖時雨』は新聞連載時には『焼つぎ茶碗』というタイトルであった。じつは紅葉と巌谷小波、幸田露伴は、友人の石橋忍月の京土産に清水焼の夫婦茶碗を贈られていた。ここで三人の結婚は、ある種の競争になったのだが、一番初めに結婚したのが紅葉だった。無妻主義をあっさり翻し、早々に結婚した紅葉には、親友の小波も祝福しつつ苦笑したらしい。『袖時雨』は、この紅葉の結婚の年に書かれている。なお田山花袋は『紅葉山人訪問記』で、この作品のモデルは森鷗外だと述べている。自らの結婚もあり、紅葉もいろいろ考えた時期だったのだろう。


『春陽堂書店 発行図書総目録(1879年~1988年)』春陽堂編集部(編)
春陽堂が1879年~1988年に発行した図書の総目録です。
書名索引付き、747ページ。序文は春陽堂書店5代目社長・和田欣之介。
表紙画は春陽堂から刊行された夏目漱石『四篇』のものをそのまま採用しました。


この記事を書いた人
堀 啓子(ほり・けいこ)
1970年生まれ。東海大学教授。慶應義塾大学文学部卒業。慶應義塾大学大学院文学研究科博士課程単位取得、博士(文学)。日本学術振興会特別研究員(PD)を経て、現職。国際児童文学館 令和3年度特別研究者。専門は日本近代文学、比較文学。2000年に尾崎紅葉の『金色夜叉』にアメリカの種本があることを発見、その翻訳『女より弱き者』(バーサ・クレー著、南雲堂フェニックス、2002年)も手がけた。主な著書に、『日本近代文学入門』(中公新書、2019年)、『日本ミステリー小説史』(中公新書、2014年)、『和装のヴィクトリア文学』(東海大学出版会、2012年)、共著に『21世紀における語ることの倫理』(ひつじ書房、2011年)などがある。