斎藤真理子さんインタビュー
韓国文学の誘い(後半)

インタビュアー:倉本さおり&長瀬海

現代の韓国社会が抱える問題と、作家はどのように向き合っているのか。映画『パラサイト』と韓国文学のつながりとは── インタビュー後半では、「ポリコレのエンタメ化」ともいわれる韓国の文学・映画・ドラマの魅力と特殊性などお話いただきました。


においと貧しさ
──『盗まれた貧しさ』『野蛮なアリスさん』『パラサイト』

── 斎藤さんは初めて原文で読んだ韓国文学が、パク・ワンソ「盗まれた貧しさ」だったと『文藝』(2019年秋季号)で書かれていましたよね。当時、どんな経緯でこの小説を読むに至ったんですか?
斎藤 大学に、朝鮮語を自主的に学ぶサークルがあったんだけど、そこで先生がテキストに選んでくださった作品です。パク・ワンソは、誰からも敬愛された、文字通りの女性の長老作家ですね。長編では橋本智保さん訳の『あの山は、本当にそこにあったのだろうか』などが出ているし、短編でも古山高麗雄さん編集の『韓国現代文学13人集』をはじめ、かなり日本語訳が出ています。この作家は、においとか質感とか手ざわりとか、五感の表現がすごい。韓国の女性作家で一番好きなんです。「盗まれた貧しさ」で描かれるのは、単純な貧しさじゃない。主人公は中産階級に生まれたけど、転落していった。そこで、「におい」というものが重要な意味を持ってしまう。すごく鋭い身体感覚を持って、生活感のある貧しさを描ききっている。階級移動が激しかった韓国ならではのものだとも感じます。

古山高麗雄(編)『韓国現代文学13人集』
(新潮社、1981年)

── 存在とにおいがみっしりと結びついていますよね。家族の寝息を「音となって聞こえている体臭」と表現するところとかも本当にすごい。
斎藤 先に挙げたパク・ワンソの『あの山は、本当にそこにあったのだろうか』は朝鮮戦争当時の自分を描いた長編ですが、そこでもにおいの描写がとても印象的です。すごく面白い作家ですね。二十代だった私は、女の人が、自分が貧しいってことにプライドを持ってるってところが理解できなかったんだけど、そのときははっきり言葉にできないながらも、その不思議さみたいなものにひきつけられたんじゃないかな。
── そういう強烈な違和感を、ファン・ジョンウン『野蛮のアリスさん』を読んだときにも受けました。主人公のアリシアは「体臭をまき散らすホームレス」です。これを読んで強烈な「他者体験」みたいなものをした感じがして。映画の『パラサイト』でも、金持ちのお父さんが「あのにおいだけは我慢ならない」という場面がありますね。
斎藤 『パラサイト』には、においの問題がすごい分かりやすくでてきていますよね。ちょっと分かりやすすぎるかなとも思うけど。「半地下のにおいだよ」って言うんだけど、とてもリアリティーあった。においってマーキングだから、それを否定されると、鬱勃と殺意があがってくる。見ようによっては、『パラサイト』は70年代後半の「盗まれた貧しさ」の発展形というか、50年経った現在でもまだその構造があるのかって気づかされた映画でした。もちろんかつての貧しさと、新自由主義のもとでの貧しさは違うわけですが、「盗まれた貧しさ」と『パラサイト』の間には、韓国の現代史がぎゅっと詰まっている。それを「におい」というキーワードでつなぐとすごく面白いと思います。

ファン・ジョンウン『野蛮なアリスさん』
(河出書房新社、2018年)

── 韓国は70年代後半~80年代前半から経済成長を遂げてきましたよね。でも文学は、貧しさを見つめ続けていて、それを絶えず更新しているのかなっていう気がするんです。
斎藤 貧しさからは逃げなければならないというか、こうなっては嫌だって思いがあるのかな。日本もいま相当な格差社会になっていると思うんですけれど、体感的に格差社会の温度みたいなものは、韓国のほうがぐんと強いと思います。負けたら終わり、みたいな感じがすごくある。みんな、負けないためにものすごい頑張っているっていうか。
韓国文学の最前線とは何か
── 現在の韓国文学を読んでいると、どの作品も「絶望」が表れていることに気が付きます。非常に深い「絶望」がしっかり根を張ってしまっているというか。キム・へジン『中央駅』や、ファン・ジョンウンの数々の作品は特にそれが強い。
斎藤 私は、自分が訳したものの中で一番すごい小説だと思っているのは、ファン・ジョンウン『ディディの傘』です。読んだ方から「一体これは何なんだ」って感想が多かった作品でもある。「言語化できないけど、なんかすごいもん読んだ」みたいな、ね。私も「これは何なんだ」って思いながら訳していました。この作品は、いまおっしゃられたように、「絶望」っていうキーワードみたいなものを身体化して捉えてるような作家たちが群れでいて、そこから出てきた作品です。ファン・ジョンウンは孤立してはいない。その連帯の中にいます。どういう形で話の整合性をつけるかは作家それぞれなんだけど、ファン・ジョンウンさんは無理に整合性をつけないという形式を選んだ。それがすごい。決して簡単ではない形式なのにね。だからものすごいチャレンジングな作品です。その絶望の深さに見合った姿勢というか、そういうものを見た思いがするんです。ファン・ジョンウンさんがこの先どんなものを書くのか、とても気になりますね。

ファン・ジョンウン『ディディの傘』
(亜紀書房、2020年)

── シャーリー・ジャクスン賞長編部門を2017年に受賞した『ホール』のピョン・ヘヨンさんも日本でとても人気のある小説家ですね。
斎藤 ピョン・ヘヨンさんも独特の世界を持つ作家で魅力的ですよね。不穏さを切り取ったりクローズアップして物語に仕立てていくのが本当にうまい。ハン・ガンさん同様に、非常に尊敬されていますし、2人とも大学の先生で、文芸創作科で後進を育ててらっしゃる。でも、文芸創作科の教授は全部男で、生徒は全部女だって、チェ・ウニョンさんがエッセーで書いてましたね。
── 小平麻衣子さんが『夢みる教養』という、日本の女性をめぐる「教養」の変遷を論じた著作の中で、川端康成が戦前のキャリア志向の女性向けの雑誌で書き方講座、文章講座のような投稿ページを持っていたことに触れているんですが、そこで彼が取りあげる文章が、明らかにうまいテクニカルなものじゃなくて、一生懸命でたどたどしさのあるものをいつも選んでいた、と。実際、現代でも女性が書いたものは、批評的なものであっても「女性エッセー」のコーナーに置かれたり、実用書みたいに扱われてしまっている状況があるわけで。要するに、女性を「プロ」として見なさないで、アマチュアにとどめておくようなシステムが日本で作られてきた、という事実が浮かびあがる。チェ・ウニョンさんのお話を聞くと、韓国にもそういう構図があるのかなと
斎藤 似たようなところはあるかもしれません。
── でも、ファン・ジョンウンさん、ピョン・ヘヨンさん、ハン・ガンさん、それに『フィフティ・ピープル』や『保健室のアン・ウニョン先生』のチョン・セランさんといった書き手の存在からは、そうした構図に対する反発のエネルギーみたいなものの大きさを感じます。
斎藤 今の韓国では、大学の文芸創作科で学んで作家になる人がとても多いです。作家や評論家である教授のもとで小説を書き、さらに、その教授たちが選考委員を務める文芸賞に応募して作家になるというコースが確立していますが、『鯨』という抜群に面白い小説を書いた作家のチョン・ミョングァンなどは、そもそもそのシステムが間違ってると言います。つまり、「相当数の作家が先生たちの視線とことば、そして文学的判断みたいなものから自由になりえない」って。さらに、チェ・ウニョンさんの言うように、学生は女が多く、教授は男が多いっていうジェンダーバランスの悪さがあるわけですね。

チョン・セラン『フィフティ・ピープル』
(亜紀書房、2018年)

 去年の2月に東大であるシンポジウムが開かれたとき、私の好きな批評家のジョ・ヨンイルさんがそこで質疑応答のときに、「新人の作品がよく似ていてつまんない。善良な若い女性の主人公が職場の不条理に苦悩するっていうのが多くて」という意味のことを言っていました。そういうものが、先生たちにほめられて賞を取るからみんな同じになっちゃうって。まあ、日本など外国にはその中から選りすぐられたものが翻訳されるので、「似たようなものばっかり」っていうのは日本にいるとあまり感じないと思いますが、確かに私が下読みしていても、そういう職場小説的な作品はかなりありましたね。
 その中でずば抜けていたのが、チャン・リュジンの『仕事の喜びと悲しみ』だったと思います。ここに描かれているのは、一人一人が求めている、仕事の場での「私の小さな道徳」といっていいと思います。韓国って本当に競争界で、遊びの部分がすごく少ない、逃げ場が狭い。日本もどんどんそうなっていると思いますけど。その中で正しさを求めていこうとするには一人一人はあまりに力が弱いし、女であればさらにしんどいけれど、じゃあどうすればいいのかっていう小さな心の悩みと奮闘をつづっています。そういう、ミニマムな心の揺れみたいなものは、日本で確実に読者がいるんだと思います。それって本当に日常的な問題じゃないですか。ここで私は声をあげていいのか、どうすればいいのか、みんなはどうしてきたのか、なぜ私なのかっていう葛藤、そういうのは、世代は違うけどチョ・ナムジュさんの『彼女の名前は』にもいっぱい描かれていましたね。
 確かに、よく似たようなものばっかり出てくるっていう現実はあるのかもしれないけど、チャン・リュジンさんの作品の主人公たちのユーモアをまじえた奮闘ぶりは、やはり韓国文学の現在地を示していると思うし、そこに、韓国文学のさまざまな正しさの行方といいますか、そのバリエーションがあるんだと思います

チャン・リュジン『仕事の喜びと哀しみ』
(クオン、2020年)

── 自分たちの国にいる「上の世代」の人たちの言葉よりも、いまの隣人の言葉のほうが心に届き得る。それは、ある意味ではいい時代なんだと思います。フェミニズム、格差社会というところ以外での韓国文学の特色や特殊性はありますか?
斎藤 そもそものことをいうと、韓国文学の特殊性は北半分の文学が全く白抜きになっていることです。この特殊性は異常な事態なんだって意識したほうがいい。それから、ドラマや映画と共通する点でいうと、「ポリコレのエンタメ化」っていうのがあるかなと思います。
── すごいパワーワードですね(笑)。
斎藤 これは私じゃなくて、社会学者のハン・トンヒョンさんが、韓国映画やドラマについて言った言葉なんですけどね(西森路代さんとの共著『韓国映画・ドラマ わたしたちのおしゃべりの記録2014〜2020』駒草出版)。文学の世界にもそれと地続きなところがある。ダイバーシティとか現代社会におけるキーワードをしっかり盛り込んで、ドラマも映画も、小説も作られている。この「正しさを追求する」という伝統も韓国文学にはあるわけですね。教科書みたいな小説だとは思われたくないんだけど、根底にそれがあるっていうのは韓国文学の一つの特徴だと思いますね。

(2021年1月29日 オンラインにて収録)
プロフィール
斎藤真理子(さいとう・まりこ)
新潟生まれ。翻訳者。訳書にパク・ミンギュ『カステラ』(ヒョン・ジェフンとの共訳、クレイン、第一回日本翻訳大賞受賞)、チェ・ナムジュ『82年生まれ、キム・ジヨン』(筑摩書房)、ハン・ガン『回復する人間』、パク・ソルメ『もう死んでいる十二人の女たちと』(以上、白水社)、ファン・ジョンウン『ディディの傘』、チョン・セラン『声をあげます』(以上、亜紀書房)などがある。


倉本さおり(くらもと・さおり)
東京生まれ。書評家、法政大学兼任講師。共同通信文芸時評「デザインする文学」、週刊新潮「ベストセラー街道をゆく!」連載中のほか、文芸誌、週刊誌、新聞各紙で書評やコラムを中心に執筆。TBS「文化系トークラジオLife」サブパーソナリティ。共著に『世界の8大文学賞 受賞作から読み解く現代小説の今』(立東舎)、『韓国文学ガイドブック』(Pヴァイン)などがある。

長瀬海(ながせ・かい)
千葉県出身。インタビュアー、ライター、書評家、桜美林大学非常勤講師。文芸誌、カルチャー誌にて書評、インタビュー記事を執筆。「週刊読書人」文芸時評担当(2019年)。「週刊金曜日」書評委員。翻訳にマイケル・エメリック「日本文学の発見」(『日本文学の翻訳と流通』所収、勉誠社)共著に『世界の中のポスト3.11』(新曜社)がある。