南條 竹則

第13回 てんやわんや【前編】

 戦後の食糧難の時代、獅子文六は妻の縁故で四国の宇和島に近い岩松町(現・宇和島市津島町)へ疎開し、小西家という豪家の屋敷の一隅に住み込んだ。
 彼は気さくな小西の主人と親しくなり、客人のような扱いを受けて、ここに二年近く滞在する。「てんやわんや」はこの時の体験をもとに書いた小説で、1948年11月から1949年4月にかけて毎日新聞に連載された。
 この小説の語り手は犬丸順吉という二十九歳の青年だ。
 順吉は総合日本社という出版社に勤めていたが、戦後の殺伐とした世相がいやになり、郷里北海道へ帰って農業をしようと思う。ところが、社長の鬼塚玄三に説得され、秘密の書類を託された上、四国へ静養にゆくことになる。
 彼は鬼塚の紹介状を手に、相生町の玉松勘左衛門──「相生長者」と言われる有力者のもとを訪れる。
 相生町は、人心荒廃して治安も悪い首都圏とはまるで別世界のようにのどかな土地だった。順吉は桃源郷に遊ぶ心地を味わう。その楽しい日々をつづる中に、作者が疎開中に体験した鉢盛料理というものが描かれる。
 作中では、東京からやって来た鬼塚玄三をもてなす盛宴の料理という設定になっている。
 すると、先刻、酌をした四、五人の男が、今度は座の中央に、高脚たかあしの膳に載せられた蒔絵まきえの大鉢から、同じ模様の木皿へ、料理を取り分けに掛った。遠くてよく見えないが、大きな鯛の浜焼らしきもの、カマボコや卵焼の口取りらしきもの、ウマ煮らしきもの、え物らしきもの、巻鮨まきずしらしきもの、ウドンらしきもの──十数種にわたる食物が、同数の鉢に盛られてあるようであった。そして、どの鉢にも、盛り込んだ料理を中心に、桃の花とか、早咲きのツツジだとかが、活花いけばなのようにしてあった。(『てんやわんや』ちくま文庫、192-193頁)
 それが、この地方の名物“鉢盛料理”であった。
 やがて料理は木皿に盛られて、客人の膳を一杯にする。
 刺身や酢の物が、木皿に盛られるのは、ヘンな気がしたが、客は、慣れてるらしく、忽ち容器をカラにした。都会の宴会のような、遠慮や気取りは、どこにも見られなかった。誰も彼も、実に、ムシャムシャと、高速力で料理を平らげるのであるが、もし一つの木皿がカラになると、かの接待人は、ざとくそれを持ち去って、同種の料理をたしてくれるのである。従って、三度も四度も、お代りをする者もあり、キリというものがない。(同193頁)
 この座を仕切る接待人は“オトリモチ”といい、来客のうちで、その家と昵懇じっこんな者から選ばれる。「かような席に、女中などが現われるのは、失礼とされる習慣があるのみならず、鉢盛料理を長い箸で取り分けるには、特殊の技術を要し、宴会慣れた人物──つまり、一カドの旦那でないと、勤まらない役目なのである」と作者は述べている。
『私の食べ歩き』所収の随筆「鉢盛料理」によると、
 オトリモチはとりもちのみをしてるのではなく、宴果てて後彼らのみの宴会が行われる。決して残肴をついばむのではない。鄭重ていちょうな家では翌日改めてオトリモチを招待するとのことである。(『私の食べ歩き』中公文庫、96頁)
 まるで仲人さんか何かにお礼をするようだ。
 獅子文六の描くこの料理は、食前方丈という言葉さながらの豪華さも魅力だが、名誉ある素人とでもいうべきこの人々の存在が、わたしには何とも好ましく、羨ましく感じられる。訓練された給仕人ならソツはないだろうが、「一カドの旦那」が食べ物を取り分けてくれる有難味は格別だろう。
 商業主義に染まりきった現代の我々は、何でもプロに任せるのが最善だと思いがちだが、世の中には素人がするからこそ意味のあることも存在する。
 獅子文六は「南の男」に、例の「酒鮨」についてこう書いている──「料理屋へ頼めば、つくってくれるが、それではキレイゴトの別物になってしまう。飽くまで家庭料理なのだから、素人につくって貰わなくてはならない。」(『ロボッチイヌ』ちくま文庫、239頁)
 料理だけではない。永井荷風の随筆「何じややら」に曰く──
 凡そ事一度職業的となるや其術巧みなれば其の心いよいよくだる事あたかよう書家しょかの手蹟往々気品に乏しく売文者の文章常に精神なきが如し。(『荷風全集』岩波書店、第14巻309頁)
 わたしなども耳が痛い。


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この記事を書いた人
文/南條 竹則(なんじょう・たけのり)
1958年生まれ。東京大学大学院英語英文学修士課程修了。作家、翻訳家。
『酒仙』で日本ファンタジーノベル大賞優秀賞を受賞。以後、幻想小説、温泉、食文化への関心が深く、著書も多い。主な著書に、小説『魔法探偵』、編訳書『英国怪談珠玉集』など多数。

絵/橋本 金夢(はしもと・きんむ)