南條 竹則

第13回 てんやわんや【後編】

「てんやわんや」の主人公・犬丸順吉が東京に嫌気いやけがさした理由の一つに、世間の熾烈しれつな戦犯追及があった。
 北海道から東京に出て来た順吉は旧日政党代議士の鬼塚玄三に拾われて、彼の出版社に勤めるが、戦争になると鬼塚の言いつけで軍の情報局に入っていた。
 だから、おまえもことによるとGHQにアゲられるかもしれん。故郷などに帰ったら、よけいに危ないぞ。わしが四国でかくまってやる、と鬼塚は順吉を脅したのだった。
 順吉は相生町へ行っても、日々戦犯に関する報道に接しておびえる。彼の恐怖心は、「追放仮指定」を受けた作者自身の心境を多分に反映しているようだが、獅子文六はからくも追放を免れ、新聞に「てんやわんや」を書くことができた。
 物語の順吉も四国でのびのびと暮らした。
 彼が身を寄せた玉松勘左衛門邸には地元の有力者が集まり、呑気なクラブさながらの雰囲気を醸している。この玉松邸の常連客で、順吉が特に親しくなった者が二人いた。
 一人は越智善助という町会議員で、饅頭を三十個も食ってみせる大食漢だ。闇取引で儲けていて、順吉にも一口嚙ませてくれる。
 もう一人の田鍋拙雲は臨済宗の僧侶だが、寺の仕事に身が入らず、鰻をって売っている変わり者。しかし、町の青年に声望が高く、四国独立の夢を抱いている。
 順吉はこうした人々に囲まれ、異郷の生活を楽しんで暮らしているが、やがて自分をここへ送りつけた鬼塚の腹のうちが読めてきた。鬼塚は自分の出身地で行われる選挙に備えて、有力者の玉松を自派に引き込もうと企み、順吉をそのための工作員にしようとしたのだ。
 しかし、そんな桃源郷の日々も永久には続かない。戦後の財産税で、玉松家の屋台骨もぐらついて来た。東京へ帰る潮時かと順吉は思う。
 ただ彼には心残りがあった。
 彼は平家の残党だという山里を訪れた際、泊まった家の美しい娘アヤメと一夜を共にする。アヤメには幼い頃からの許嫁もいたのだが、里の古くからの習慣で、客人への供応の意味で枕を交わしたのだった。
 しかし、順吉はてっきり彼女に惚れられたのだと思って、熱を上げる。東京に連れて帰るためにふたたび里を訪ねたが、アヤメはすでに嫁していることを知って、ショックを受ける。
 あたかもその時、大地震と津波が四国を襲い、文字通りてんやわんやの騒ぎの中で、順吉は東京へ帰る。
 こういう一種浦島太郎的な話に、作者は当時の世相や南伊予の風物を盛り込んだ。地方色を描くことは獅子文六の得意とするところで、「てんやわんや」には闘牛や、土地の選挙、灯籠焼き、秋祭の「牛鬼うしおに」などが活写される。
 食べ物に関していうと、例の鉢盛料理の話が白眉といえるが、ほかにも土地の味覚がいくつか紹介されている。
 山里で食べる山女魚やまめに似たアメノウオ(アマゴのことだ)、地元の蒲鉾かまぼこ、ホケという芋焼酎、大鰻を食べる話も出て来る。
 わたしが一番興味を惹かれたのは、順吉がアヤメの家で供されるの子である。
「もう、ええ頃やなかろうか」
 銅八さんの声が聞えた。見ると、彼と細君とが、囲炉裏いろりの灰の中から、何か大きな黒いかたまりを、引き出してるところだった。途端に、あぶり肉の芳香が、私の鼻をついた。
「うん、よう焼けとらい」
 灰にまみれた肉塊を、力任せに、銅八さんが引き裂いた。中から、ボロボロ、味噌のようなものが、こぼれ落ちた。
 一口味わって、私は、その珍しい味に、驚いた。
の子ですらい。腹に、醬油かすと山野菜を詰めて、灰で蒸し焼きにしただけで、ほんの山家やまが料理ですらい」(『てんやわんや』ちくま文庫、223頁)
 これは読んでいて、思わずよだれが出る。
 子豚は美味いが、猪の子ならもっと美味かろう。それに山菜を詰めて蒸し焼きとは──順吉はこれを肴に、あわでこしらえた焼酎を飲むのだ。
 この種の蒸し焼き料理は、きっと世界各地にあるだろうが、わたしがすぐ思い出したのは、中国料理の名菜「叫化子こじきどり」だ。蘇州に近い常熟の街が発祥の地と言われるけれども、杭州の「楼外楼」などでも名物としている。
 鶏のはらわたを取り去って米や松の実などを詰め、泥でくるんで蒸し焼きにし、食べる時は金槌で泥をパカンと割る。そのパフォーマンスが面白いので、横浜の中華街などでも一時流行した。
 言い伝えでは、鶏を手に入れた叫化子こじきが、調理道具がないので鶏を丸ごと泥で包み、焚き火に放り込んで焼いたのが始まりという。
 鶏も美味いけれども、猪の子もぜひ一度食べてみたいものだ。


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この記事を書いた人
文/南條 竹則(なんじょう・たけのり)
1958年生まれ。東京大学大学院英語英文学修士課程修了。作家、翻訳家。
『酒仙』で日本ファンタジーノベル大賞優秀賞を受賞。以後、幻想小説、温泉、食文化への関心が深く、著書も多い。主な著書に、小説『魔法探偵』、編訳書『英国怪談珠玉集』など多数。

絵/橋本 金夢(はしもと・きんむ)