第17回:徳永直『はたらく人々』語義あれこれ

清泉女子大学教授 今野真二
 今回は徳永すなお『はたらく人々』(【図1】表紙)(1939年9月10日発行)を採りあげる。【図2】は奥付であるが、「検印」欄には「徳永」という小判型の朱印がおされていて、向きが逆になっている。この本は中川一政かずまさが装幀を担当している。

【図1】

【図2】

 徳永直(1899~1958)は熊本県の小作人の長男に生まれ、小学校卒業前から印刷工、文選工などとして働いていたことが知られている。後には博文館印刷所において植字工として勤務した。『光をかかぐる人々』(1943年、河出書房)には活版印刷の歴史も綴られている。
『はたらく人々』は「二階が整版部になつてゐて三十人ばかり、階下は印刷部で七八台の平台印刷機ロールを据ゑて二十人足らず、合せて五十人あまりの従業員」の「印刷工場日進堂」が作品の舞台となっている。登場人物の「アサ」はこの印刷工場で働いているという設定になっている。
 この本は【図3】でわかるように、振仮名がほとんど施されていない。読み進めていくと、これは現代日本語母語話者には、案外すぐに読めないかもしれないと思う箇所が散見する。
01:はつきりと眼が醒めたときには、いくらか狼狽ててゐた。(3頁)
02:こんどは父親の方が、視線を逸らしながらつぶやくやうに云つた。(6頁)
03:アサは黙つて湯を喫み、それから茶碗をかさねた。(6頁)
04:愛情をはやく具体的にしたいと焦せつてゐる容子が犇々と感じられた。(9頁)
05:アサはあせり気味に、男たちの憩んでゐる文選場のまへを (28頁)
06:窓下の通りには埃りをあげてトラツクやオートリヤカアが疾走つてゐる。(28頁)
07:「、結婚する心算よ」(35頁)
08:も一人の学生服を着た男はいくらか含羞んでつつたつてゐるが、(37頁)
09:それでも勝手に四つの皿に入つたアサの知らないものが搬れてきた。(38頁)
10:だいち彼女は生涯の瀬戸際にたつてゐるやうな緊張で苛ついてゐた。(38頁)
 クイズの答え風にいえば、01「アワテテ」、02「ソラシナガラ」、03「ノミ」、04「ヒシヒシト」、05「ヤスンデ」、06「ハシッテ」、07「アタシ/ワタシ」・「ツモリ」、08「ハニカンデ」、09「ハコバレテ」、10「イラツイテ」を文字化したものと思われる。05は「キュウケイ(休憩)」、09は「ウンパン(運搬)」という漢語を想起しながら文を読めばわかるだろう。その他のものも「難問」ではない。しかし、例えば、大学生はどのくらい読めるだろうか、などと考えてみる。
 テレビ番組では日本語にかかわるクイズがいろいろな局で行なわれている。そういう番組の「問題」について質問を受ける機会が増えてきた。勤務先の大学に電話が入ったり、ファクスが届いたりする。「この問題の答えはこれでいいでしょうか?」「いや、ちょっと不正確な気がするので、少し調べる時間をください」「やはりこういう説明がいいですね」「ありがとうございました」「ガチャン」ということも多いので、最近は「どういうご質問ですか」とたずねることにしている。
 それはそれとして、クイズ番組の中には小学校の学習内容をクイズにして、それを大人が答えるというようなものもある。なぜ小学校? と思う。現在の小学校の学習内容に基づくクイズに大人が答えられなくてもしかたないこともあるだろうが、答えられたからといって「すごいすごい」ということにもならないだろう。「みんながわかる」ことを重視しすぎると「わからないこと」のおもしろさがわからなくなる。クイズにするのだったら、むしろ上記のようなものをクイズにしたらどうだろうか。かつてのクイズはそうだったのではないか。

【図3】

 さて【図3】の9行目に「父親に下駄をそろへてもらふにはなづみきれぬ苦しさがあつた」とある。『日本国語大辞典』は見出し「なずむ[なづむ]」の語義を(1)「人や馬が前へ進もうとしても、障害となるものがあって、なかなか進めないでいる。進まないで難渋する」(2)「物事がなかなかうまく進行しなくなる」(3)「しようとしていることが、うまくいかずに思い悩む。思い煩う」(4)「ある物事に関わり続ける。こだわる。執着する」(5)「ひたむきに思いを寄せる。執心する。惚れる」(6)「なれ親しむ。なじむ」と六つに分けて説明している。古典であれば「ナヅム」は(1)~(4)の語義で使われる。(5)の語義は「ナジム(馴染む)」の語義と近い。幕末頃に(5)の語義が生じると、そこから(6)の語義がうまれた。引用した「なづみきれぬ」は(6)の語義での使用例にあたるが、「ナヅム」といえばまず古典での語義が思い浮かぶので、一瞬「あれ?」と思う。こういうことに気づくのも楽しい。また【図3】の3行目「貧乏髭」の語義はなんとなくわかる。現代日本語でいえば、「無精髭」にちかい語であろう。「びんぼうひげ」は『日本国語大辞典』が見出しにしていない語である。
(※レトロスペクティブ…回顧・振り返り)

『ことばのみがきかた 短詩に学ぶ日本語入門』(春陽堂ライブラリー3)今野真二・著
[短いことばで、「伝えたいこと」は表現できる]
曖昧な「ふわふわ言葉」では、相手に正確な情報を伝えることはできない。「ことがら」・「感情」という「情報」を伝えるために、言葉を整え、思考を整える術を学ぶ。

この記事を書いた人
今野 真二(こんの・しんじ)
1958年、神奈川県生まれ。清泉女子大学教授。
著書に『仮名表記論攷』(清文堂出版、第30回金田一京助博士記念賞受賞)、『振仮名の歴史』(岩波現代文庫)、『図説 日本の文字』(河出書房新社)、『『日本国語大辞典』をよむ』(三省堂)、『教科書では教えてくれない ゆかいな日本語』(河出文庫)、『日日是日本語 日本語学者の日本語日記』(岩波書店)、『『広辞苑』をよむ』(岩波新書)など。