第5回 『このぬし』
 ──芍薬しゃくやくの香が結ぶ、大和撫子の恋

東海大学教授 堀啓子

 作家・尾崎紅葉の才を早くから見いだし、懇篤に支え続けたのが、春陽堂書店でした。貸本屋や本の小売り、行商から出発して書店を構え、ほどなく出版業にも手を染めた春陽堂は、紅葉作品の多くを洗練された表装や口絵で飾った単行本にして上梓し、のちには全集も編んでいます。
この両者を初めて結び付けた作品が、今回ご紹介する『此ぬし』です。春陽堂主人・和田篤太郎の熱心な依頼を受け、明治二十三年に同社が刊行した『新作十二番』というシリーズの二作目として発表されると、直後から高座にもかけられ、エネルギッシュな意欲作として高く評価されました。ここから紅葉の快進撃が始まっていきます。


〈女子力〉なる言葉が世に定着して久しい。定義は難しいが、女性らしさが巧みに表現される感性や技術、といったところだろうか。尾崎紅葉が活躍した明治時代、そんな言葉はもちろんなかったが、潜在的な感覚として女性たちは意識していたかも知れない。だが紅葉の描く、恋する女性には、そうした方向にはまるで疎い“残念”美人たちがいた。彼女らは、恋のアプローチも自らのアピールもいまひとつで、相手の思惑などお構いなしの猪突猛進型である。
 その典型ともいえるのが『此ぬし』のヒロイン・薄井うすい龍子りょうこである。小石川植物園近くの「立派に厳粛いかめしき一軒」家に、「活計くらしの模様は美しく」、豊かな余生を楽しむ「前権大さきのごんだい書記官」を父に持つ彼女は、近隣でこう評される。
 今年お十九とやらにて、この小石川に名代なだい御容色美ごきりやうよし御学問おがくもんも優れ、裁縫遊芸たちぬひいうげい何にもあれ未熟はなくて、誇らずたかぶらず、おとなしくして高等ひとがらなるは、今珍いまめずらしき御嬢様
そんなパーフェクトな彼女が見初めたのが、隣家の苦学生、小野俊橘しゆんきつであった。

『此ぬし』(春陽堂、明治二十三年、初版)表紙。『新作十二番之内』と、シリーズのうちの一作であることも明示されている。(著者所蔵)

 早くに両親を亡くし、弟と二人暮らしの瘦せ世帯を、私立学校で教鞭を執りつつ辛くも支える俊橘は、帝国大学きっての俊英と目される。眉目秀麗ながら物堅く、「世の傑物」たらんという青雲の志は、誰よりも高い。だが行状学力ともに優れた「大学の名物男」たる俊橘は、いっぽうで無類の硬派としても知られていた。徹底した独身・無妻主義を掲げるその持論は「女子に遠ざかるものは一世の人物たるべく、近づくものは乞食にし」である。
 何の因果か、龍子はこの俊橘に望みのない恋をした。近づく縁もない戦況は絶望的である。だがここに、龍子にとって、まさに「将を射んと欲すれば」となる相手、俊橘の弟で十三歳になる俊次が登場する。千載一遇の好機は、俊次が子供らしいあどけなさで、薄井家の庭の芍薬しゃくやくを覗き込んだ時に訪れた。
 俊次は我庭の後より此処に忍び寄りてうかゞへば、はたして! 芍薬くわつと丹舌たんぜつき、をどり狂ふてたてる姿は、名種と見えて目覚めざましきが、石台せきだいを溢るゝばかり獅子頭しゝがしらをふり乱して真盛(まさかり)なるに、俊次ぞく/\して、あのすぐれて大輪なるをと、呼吸いきを殺して見入ける間に、風もなきにぽろ/\と二三べん散るを見て、南無三なむさん! 此花このはな明日あしたを待たじ、欲しや、欲しや、手にとりて見ばずゐの形はいかゞあらむ、香気にほひならずからむにと、身をもがきて堪えがたき気色けしきなり(…)
 
俊次は塀越しに芍薬に手を伸ばすも、残念ながら散らしてしまう。だがこれに気づいて優しく家に招き入れた龍子と、これが縁で馴染みになり、俊次は次第に彼女を姉の様に慕い始める。だが「女子は筋骨をゆる神気しんきを弱むる大劇毒にして、之に一度ひとたび触れなば、百年不治の懦弱だじやくといへる病に罹」ると信じる俊橘に叱責され、以降の隣家への出入りを禁じられてしまう。

『此ぬし』(春陽堂、明治二十三年、初版)口絵と作品冒頭。月岡芳年の描いた龍子はさすがの美形だが、その髪型は、当時神田にあった花街の芸者を思わせる、素人娘らしくないもので、違和感も残るものだった。(著者所蔵)

 いっぽう龍子は巧みに、俊次に兄の目を盗んでの出入りを続けさせ、俊橘の情報収集に余念がない。そうして何とか俊橘に近づく戦法を練るも、なかなか牙城を崩せず時が経つ。そんなある日、俊次が薄井家の飼い犬に噛まれて軽傷を負う。龍子は見舞いと称して、小野家に日参し遂に俊橘に出会うも、「くど/\と無益の問答はなしに、男子の神聖を汚さるゝ思ひして、この大悪魔め、去れ/\!」と内心に願う俊橘は、ただ「御心配は御無用」とばかりで取り付く島もない。
 だが龍子はこれでもあきらめない。実意ある日参の見舞いに根負けし、義理にかられて七日目に「艶気つやけなき挨拶一通りの手紙」を送った俊橘だが、彼は直後に受け取った礼状に戦慄する。
 

 あの御返おんかへしの玉章たまづさは、是迄これまで七日余なぬかあまり無情つれなさにては、買難かひがたき宝と大事にして、肌身を離さずとあり。 肌身! 肌身を離さずとありけり。
 
こうなると、もはや滑稽味さえ帯びてくる。一途な想いを綴った龍子には気の毒だが、その自己満足は、恋の成就には明らかな逆効果である。ほどなく龍子は俊次を使者に、艶書を送るも俊橘の怒りは心頭、ラブストーリーもここに尽きる、と思われた。
 だが急転直下、事故が起きる。龍子に会うことを禁じられ、退屈しのぎに玩具の吹矢で遊んでいた俊次は、龍子の件で叱責された負い目から、兄に吹矢を貸すことになる。だが俊橘の吹いた矢が偶然、隣家の庭にいた龍子の片目に当たってしまう。度を失って介抱する俊橘に、目から血を流しながらも龍子はとっさに我が身の今後を訴えて、
 

 不躾ぶしつけながら……此身このみを……妻にしてはたまはらぬか。 隻眼かための妻はお可厭いやか、お可厭なるべし。 されど此眼このめ此命このいのちを捧げたる証拠婿引出むこひきで思召おぼしめされて、真実しんじつもの、(中略)妾手懸めかけてかけ幾人いくたりありともくるしからじ、「たゞ」このりようを妻にしてたまはれ。 さらずば此命は何をたのみながらふべきぞ。 両親ふたおや悲嘆なげきを見るもつらし、すゑ/”\末々貴下あなたの奥様見むもつらし、今はたゞ死ぬのほかは(…)
 
もはや天晴であろう。この覚悟にこの度量、この胆力。瞬時にして、この状況分析の確かさに即応力。傷の痛みに捉われることなく、冷静に、しかし熱意を込めて想いを伝え、倒れた龍子に俊橘ができたことはただひとつ、
 

 飛懸とびかゝつて抱起だきおこし、物をも言はず其目に唇を押当おしあて、溢るゝ血を吸ひて、
小野をの龍子りようこ! まだむにした! 小野夫婦万歳!
  
嫋々とした乙女の一念が、帝大一の堅物かたぶつの心を塗りかえた。じゅうよくごうを制す、疲れた現代人の心も和む一作であろう。
 少なくとも小野俊橘は「世の傑物」たる妻を手に入れたのである。

『此ぬし』(春陽堂、明治二十三年、初版)奥付と同シリーズ所収の作品広告。若手の作品も積極的に収められていた。(著者所蔵)

*引用文中に、今日においては不適切と認識される表現があるが、原文の歴史性に鑑みてそのままとした。

【今月のワンポイント:春陽堂の美本】 
 紅葉の『此ぬし』は、「表装優美」「淡雅の和綴」「艶麗の画」と称された装丁の美しい単行本となった。じつは執筆依頼を受けたとき、紅葉はまだ学生の身で、期末試験前の多忙な時期であった。だが「木版の美本にする」という春陽堂の申し出に魅力を感じ、わずか一週間でこの力作を書き上げた。その後も美意識の高い紅葉は、多くの作品を委ねて麗しい春陽堂本として上梓し、自ら率いる硯友社同人の多くも春陽堂と関わらせていく。こうして春陽堂にも文学書肆としての色合いが根付いていった。


春陽堂書店 発行図書総目録(1879年~1988年)著者:春陽堂編集部
春陽堂が1879年~1988年に発行した図書の総目録です。
書名索引付き、747ページ。序文は春陽堂書店5代目社長・和田欣之介。
表紙画は春陽堂から刊行された夏目漱石『四篇』のものをそのまま採用しました。


この記事を書いた人
堀啓子(ほり・けいこ)
1970年生まれ。東海大学教授。慶應義塾大学文学部卒業。慶應義塾大学大学院文学研究科博士課程単位取得、博士(文学)。日本学術振興会特別研究員(PD)を経て、現職。国際児童文学館 令和3年度特別研究者。専門は日本近代文学、比較文学。2000年に尾崎紅葉の『金色夜叉』にアメリカの種本があることを発見、その翻訳『女より弱き者』(バーサ・クレー著、南雲堂フェニックス、2002年)も手がけた。主な著書に、『日本近代文学入門』(中公新書、2019年)、『日本ミステリー小説史』(中公新書、2014年)、『和装のヴィクトリア文学』(東海大学出版会、2012年)、共著に『21世紀における語ることの倫理』(ひつじ書房、2011年)などがある。