第18回:文部省検定済教科書『小学 書き方 三年』浸透していた旧字体

清泉女子大学教授 今野真二
 今回は西脇せき編『小学 書き方 三年』を採りあげる。【図1】は表紙であるが、図でわかるように横長の冊子として印刷されている。中扉には「昭和二十五年八月十二日 文部省検定済/小学校国語科用」とある。小学校3年生の国語の教科書と思えばよいだろう。【図2】は奥付であるが、発行者は「春陽堂教育出版株式会社」とあり、代表者が「和田欣之介」になっている。

【図1】

【図2】

『春陽堂書店発行図書総目録(1879年~1988年)』の398頁に『小 書き方 三年』〈傍点筆者〉が載せられている。ただし、これは昭和27(1952)年3月に出版されたことになっている。今回採りあげているものは『小学 書き方 三年』で、奥付には「昭和二十七年一月二十日発行」とあるので、両者は同じものであるのか、違うものなのか。こういうことも時間が経つとわからなくなってくる。
 この総目録には、昭和27年3月のところに『あたらしいおんがく(一)』や『中學音楽(1)(改訂)』『新しい造形(Ⅰ)』などがあり、この頃には教科書や学校教材の出版も手がけていたのだろう。
 この『小学 書き方 三年』は裏表紙に「ふぞく小学校/三年二組/黒木尚●」〈●は伏せた―筆者〉と記名されている。昭和27年に小学校3年生だとすると、昭和18(1943)年頃の生まれということになり、現在は78歳にもなる黒木さんがかつて使用した国語の書き方ノートである。
 さて、昭和21(1946)年11月に、現在の「常用漢字表」の前身といってよい「当用漢字表」(1850字種)が公布され、昭和23(1948)年には「当用漢字別表」(義務教育用漢字881字種)と「当用漢字音訓表」が、昭和24(1949)年には「当用漢字字体表」が公布されている。昭和25(1950)年の文部省検定も当然それをふまえたものと考えるのが自然だ。
「字の書き方じゅんじょ」という単元で、10頁には「字のかき方には、それぞれきまったじゅんがあります」とあって、「一 上からじゅんにかく」「二 左からじゅんにかく」「三 字かくの数」とある。一では「花」「葉」、二では「北」「羽」、三では「三かく」の漢字として「女・口」、「四かく」の漢字として「王・友」、「五かく」の漢字として「右・左」、「六かく」の漢字として「名・色」が挙げられ、筆順が示されている。
【図3】の11頁では、「三かく」から「七かく」までの漢字をそれぞれ9字種、2回ずつ練習できるようになっている。挙げられている字をまねて書くような形式であるが、そこに挙げられている字と、実際に黒木さんが書いた字とを比べてみるといろいろとおもしろいことがわかる。

【図3】

 もっとも気になったのは「羽」である。現在使っている「羽」であれば、2画目、3画目で片仮名の「ン」のような形を書くというのが現代日本語母語話者の感覚だろう。一方で康熙字典体こうきじてんたい〈1716年刊の中国の字書「康熙字典」で使われる字体を基にした明治以来の活字体。旧字体とも言われる―筆者註〉の「羽」は、「翅」のつくりの形で、2画目、3画目は「ン」というよりは「ノ+ノ」という感じだ。
 しかしここで「見本」として示されている字の形は「羽」でもなければ康熙字典体でもないようにみえる。これは、書道で書く、楷書「羽」の典型的な形といってよいだろう。奥付には「本書の著作にたずさわった人」として「東京学芸大学教官」の名前が5人載っている。「饗場あいば一雄かずお」が書道の専門家と思われる。そこで、書道で書く典型的な楷書を「見本」として示したのだろうか。
 ここからがおもしろい。黒木さんが書いている字は「見本」とは異なり、康熙字典体、すなわち「ノ+ノ」の形で「羽」を書いているのだ。黒木さんはこの康熙字典体をどこで習得したのか、ということだ。教室で担当の先生が指導した時に黒板に書いた形が康熙字典体であったか。あるいは黒木さんは、日常的に康熙字典体を目にしていて、その形を自分で習得していたか。いずれにしても「見本」通りには書いていない。「当用漢字字体表」では「点画の方向の変った例」のひとつとして、「羽」の康煕字典体を示していた。康煕字典体がかなり浸透していたとみるのが自然だろう。
「当用漢字字体表」が公布されたからといって、日々使う漢字の字体が急に変わるわけではないだろう。となると、昭和27年頃はまだ「当用漢字字体表」の「字体」すなわち「新字体」が、日常生活にも教育現場にも行き渡っていなかった可能性がある。そのことが推測されるのが黒木さんの書いた「羽」の字だ。漢字一字で語るねえ、と思われるかもしれないが、漢字一字からいろいろなことが推測できる場合がある。
「四かく」の「日」の「見本」は字の下部の左側は縦画がとまり、右側は縦画が少し抜ける形になっている。これは筆順からいえばそうなる。4画目は2画目の縦画を余した位置に付けるからだ。はっきりと縦画が抜ける形は、やはり書道で書く楷書体を思わせる。「母」で黒木さんが「見本」に示されている「母」ではなく「毋」を書いているのも、康熙字典体とのつながりを思わせる。
 他にもおもしろいことはたくさんある。「学級日記」という単元の22頁に、活字で印刷された「級」がみえる。書き方「見本」として示されている23頁では、糸偏の下部が「小」ではなくて、点三つの形になっている。これも典型的な楷書の形で、黒木さんは点三つの「糸」で糸偏を書いて練習している。
「新字体」が公布されたあとも、従来の康熙字典体が予想以上に浸透していた可能性を窺わせるおもしろい書き方ノートだった。
(※レトロスペクティブ…回顧・振り返り)

『ことばのみがきかた 短詩に学ぶ日本語入門』(春陽堂ライブラリー3)今野真二・著
[短いことばで、「伝えたいこと」は表現できる]
曖昧な「ふわふわ言葉」では、相手に正確な情報を伝えることはできない。「ことがら」・「感情」という「情報」を伝えるために、言葉を整え、思考を整える術を学ぶ。

この記事を書いた人
今野 真二(こんの・しんじ)
1958年、神奈川県生まれ。清泉女子大学教授。
著書に『仮名表記論攷』(清文堂出版、第30回金田一京助博士記念賞受賞)、『振仮名の歴史』(岩波現代文庫)、『図説 日本の文字』(河出書房新社)、『『日本国語大辞典』をよむ』(三省堂)、『教科書では教えてくれない ゆかいな日本語』(河出文庫)、『日日是日本語 日本語学者の日本語日記』(岩波書店)、『『広辞苑』をよむ』(岩波新書)など。