南條 竹則

第15回 林芙美子の食欲【前編】

風を見たこと、誰にある?
わたしにもない、君にもない。
けれど木の葉が揺れるのは、
風が通ってゆくところ。
風を見たこと、誰にある?
あなたにもない、わたしもない。
けれどこずえがお辞儀をするのは、
風が通ってゆくところ。

(筆者訳)
 クリスティナ・ロセッティーのこの詩は、いかにも涼しい英国の戸外が眼に浮かぶような綺麗な歌だが、一面教訓詩とも言える。
 教訓は何か?
 直接見えないものも、間接には見える場合があるということだ。
 このことは、食べ物を描写する時に痛感される。
 文章で物の味を直接表現するのは難しい。「何々のように何々だ」といった比喩や形容詞を並べても、実感のわかないことが多い。しかし、食事を美味しそうに描く作家がいて、そういう人は大概、食べ物自体よりも、食べる人間の心理や態度、その場の雰囲気などを巧みに書いている。
 林芙美子も食事を描くのが上手いと言われるが、それにわたしも同感する。彼女の作品、ことに出世作『放浪記』は、読んでいると甚だ腹の空く作品だ。果てしない食欲が描かれているからだと思う。

 御存知の通り、『放浪記』は、作者が若い頃、日記風に書き留めた雑記帳を基にした小説である。
 昭和5年に出た『放浪記』と『続放浪記』、戦後に出た『放浪記第三部』があり、今筆者の手元にある新潮文庫版はこの三つを一冊にまとめている。
 それぞれの本は、多少色合いに変化があっても、大枠は変わらない。
 主人公は貧乏で、今でいうフリーターだ。その日暮らしの生活をしながら住居を転々とし、始終腹をすかし、難しい本を読んで文学者になることを夢見、童話や詩を出版社に持ち込んでいる。
 全巻を通じて、その境遇にこれといった発展はなく、いつ抜け出せるとも知れない泥濘ぬかるみのような日常が続く。それが詩的に描かれる。
 そう、これは小説というよりも詩だ。
 歌われるのは貧乏、男、食欲、親、古里、(主に東京の)街、強い上昇志向とひねくれた自尊心。そして一切の核心をなす食欲と性欲。
 作者は生来丈夫な胃袋を持っていたに違いないが、貧しい生い立ちゆえに、いつも空腹を抱えて幼少期を過ごした。その様子は短篇「風琴と魚の町」に活写されている。
 香具師やしの養父と母は自分たちの分を減らしてでも一人娘に食わせるが、商売がふるわない時は、米の飯も腹一杯食べさせられない。
 育ち盛りの十二、三の少女の胃袋は、ああたこの足が食べたい、ナニが食べたい、カニが食べたいと叫ぶ。
『放浪記』もこの空きっ腹を受け継いでいて、食べたいけれど食べられない物たちへの強烈な欲望が綴られる。
 そのさわりを抜き書きしてみよう──
(バナナに鰻、豚カツに蜜柑、思いきりこんなものが食べてみたいなア。)
 気持ちが貧しくなってくると、私は妙に落書きをしたくなってくる。豚カツにバナナ、私は指で壁に書いてみた。(20-21頁)
 お腹がすくと一緒に、頭がモウロウとして来て、私は私の思想にもカビ・・を生やしてしまうのだ。ああ私の頭にはプロレタリアもブルジョワもない。たった一握りの白い握り飯が食べたいのだ。
「飯を食わせて下さい。」(113頁)
 貧乏は恥じゃあないと云ったもののあと五ツの駄菓子は、しょせん私の胃袋をさいどしてはくれぬ。手を延ばして押入れをあけて見る。白菜の残りをつまみ、白い御飯の舌ざわりを空想するなり。
 何もないのだ。涙がにじんで来る。電気でもつけましょう……。駄菓子ではつまらないと見えて腹がグウグウ辛気しんきに鳴っている。隣の古着屋さんの部屋では、秋刀魚さんまを焼く強烈な匂いがしている。
 食欲と性欲! 時ちゃんじゃないが、せめて一わんのめしにありつこうかしら。
 食欲と性欲! 私は泣きたい気持ちで、この言葉を嚙んでいた。(181頁)
 うで玉子飛んで来い。
 あんこの鯛焼き飛んで来い。
 苺のジャムパン飛んで来い。
 蓬莱軒ほうらいけんのシナそば飛んで来い。
 ああ、そばやのゆで汁でもただ飲みして来ようか。ユーゴー氏を売る事にきめる。五十銭もむつかしいだろう……。(368頁)
 空腹の詩──何と立派な食べ物文学であろう。
 耳に聞こえる調べは美しいが、聞こえない調べはさらに美しいとイギリスのべつの詩人が言った。
 それは食べ物に関しても言えるようだ。
 しょくせる肉は美味し。されど、食せざる肉はいやさらに美味し。されば食欲を描き続けよ。


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この記事を書いた人
文/南條 竹則(なんじょう・たけのり)
1958年生まれ。東京大学大学院英語英文学修士課程修了。作家、翻訳家。
『酒仙』で日本ファンタジーノベル大賞優秀賞を受賞。以後、幻想小説、温泉、食文化への関心が深く、著書も多い。主な著書に、小説『魔法探偵』、編訳書『英国怪談珠玉集』など多数。

絵/橋本 金夢(はしもと・きんむ)