せきしろ

#1
想像から物語を展開する「妄想文学の鬼才」として、たとえる技術や発想力に定評のあるせきしろ。この連載ではせきしろが、尾崎放哉の自由律俳句を毎回ピックアップし、その俳句から着想を得たエッセイを書き綴っていく(隔週更新)。第1回目は次の2本。

海が少し見える小さい窓一つもつ
  大正一四年 『層雲』一一月号 足のうら(三六句)
氷店がひよいと出来て白波
  大正一三年 『層雲』一〇月号 御堂(二八句)
放哉の句から生まれる新たな物語。あなたなら何を想像しますか? 

 海が少し見える小さい窓一つもつ
東京で初めて一人暮らしをした狭いワンルームの部屋の前には道路を挟んで大きな建物があって、窓を開ければその建物といくつも設置されたエアコンの室外機が見えた。窓とは逆側にある玄関を開ければ、対照的に小さく古い神社が見える。そのギャップに私は東京を感じた。故郷を感じさせる風景はひとつもなかったもののまったく平気だった。
引っ越しして次に住んだ部屋の窓からは隣の民家が見え、台所だと思われる窓のガラスの向こうに並べられた調味料と台所洗剤がうっすらと見えた。
さらに引っ越しした部屋の窓からは同じアパートの別の部屋に住む人のバイクと、生い茂った雑草と、誰も使っていない色褪せた水色の物干し台が見えた。車の古タイヤがあって、きっとあれはずっとここにあるんだろうなと思っていた。
四度目の部屋はすぐ傍に線路と駅があって、窓を開けると高架のコンクリートとホームが見えた。それはホームからもこちらが見えるということだから、窓を開けることはほぼなかった。住んだばかりの頃は電車の音がうるさくて嫌になったが、すぐに慣れた。友人の家に泊まった時、電車の音が聞こえなく静かすぎて逆に眠れなかった。そんな部屋の利点は家賃が格安だったことと、ホームからのアナウンスを聞くことができるので人身事故で遅延している等の情報はすぐに入手できることだった。
それからも何度か引っ越し、その度に違う景色を窓から見た。また引っ越さなければいけない。次の窓からは山が見えるのか、それとも海が見えるのか、あるいは故郷の景色が見えるのか。


 氷店がひよいと出来て白波
夏になれば「夏だ!」と人並みにテンションは上がるのだが、では夏らしいことをして過ごしているのかと問われたならば決してそんなことはなく、絶えず涼しそうな場所を探しているだけであり、気づけばすぐ喫茶店に入っている。珈琲を一杯飲んで店を出て歩き、暑くてまた喫茶店に入る。なければコンビニに入ることもある。涼しい場所を梯子しながら目的地へと向かうのだ。
最近気づいたのだが、信号待ちの時に日陰を探すようになっている。昔は立ち止まりたいところで止まって信号待ちをしたものだが、今は日陰へと移動する。歳をとったのか、それとも地球の温暖化がかなり進んだのか。
私が夏を特に感じるのは午前中の書店である。午前中の書店は、学校に通っている頃は知らない時間であるから非日常感に溢れている。学校をサボれば行けなくもないが私が育った田舎では午前中に学校に行かずに町にいるだけで目立ってしまうから難しかった。
となると午前中から堂々と動き回れる夏休みしかない。暑くなりそうな予感の中を歩き、あるいは自転車を走らせ、汗ばみ始めたところで書店へと入る。午前中は人がまばらであり、店員の動きがまだ開店したてのそれであり、程よい静寂がある。知らない時間の中、私は新しい雑誌や単行本の香りに包まれながらお目当ての漫画を探した頃を今でも思い出すのだ。冬休みにはその感覚がないのは夏との開放感の違いだろうか。
涼みつつ、そして日陰を探しつつ歩いているとかき氷屋があった。子どもの頃から馴染みのあるタイプのかき氷ではなく、ふわふわな見た目のかき氷だ。ここで涼むのも悪くないのだが、人気店のようで列があったので断念した。
店の軒先の風鈴が一回鳴って、夏であることを改めて知らせてくれた。

プロフィール
せきしろ
1970年、北海道生まれ。A型。北海道北見北斗高校卒。作家、俳人。主な著書に『去年ルノアールで』『海辺の週刊大衆』『1990年、何もないと思っていた私にハガキがあった』『たとえる技術』『その落とし物は誰かの形見かもしれない』など。また又吉直樹との共著に『カキフライが無いなら来なかった』『まさかジープで来るとは』『蕎麦湯が来ない』などがある。
公式サイト:https://www.sekishiro.net/
Twitter:https://twitter.com/sekishiro
<尾崎放哉 関連書籍>

『句集(放哉文庫)』

『随筆・書簡(放哉文庫)』

放哉評伝(放哉文庫)』