第19回 『東亜植物図説』わからないおもしろさ

清泉女子大学教授 今野真二
 今回は中井猛之進たけのしん監修『東亜植物図説』第5巻第2輯(通巻第18輯)(昭和27(1952)年3月発行)を採りあげてみよう。【図1】は中扉であるが、「小山/鐵夫」という正方形の朱印(蔵書印)がおされている。小山鐵夫てつおは昭和8(1933)年生まれで、11歳で植物学者である牧野富太郎の弟子となり、カナダ農務省中央研究所研究員、ニューヨーク植物園首席研究官兼アジア部長などを経て、現在は(財)高知県牧野記念財団専務理事を務めている。

【図1】

【図2】は「シホカゼザクラ(潮風の吹く所に生へる桜の意)」の図であるが、牧野富太郎の植物図を思わせるような描き方がなされている。説明は481ページから483ページまで続いている。【図3】は482ページ。図で分かるように、左側に日本語、右側にラテン語が印刷されている。

【図2】

【図3】

 本書の「凡例」には次のように述べられている。
凡例
1. 本図説は広く東亜の自生植物と栽培植物とを図説する。
2. 図説する植物を広く国外の植物研究者にも理解せしめんため、各種には日本文と拉丁文の記相文を併記する。但し欧文中の註説は図説者の便宜上、英、仏、独、何れかの国語を代用することがある。
3. 数字は凡てローマ数字を用ゐ、尺度はメートル法を用ゐる。
4. 漢字は当用漢字に限らぬ。新仮名遣を用ゐぬ。
5. 学名は万国植物命名規則に適合するものを用ゐる。
6. 1巻は4輯より成り1ヶ年間に完成を期するが、現在の困難な時には已むを得ず2ヶ年以内に完成する事にする。
7. 出版費の都合上2頁大の図は図版2枚に算へ、各輯通計10図版以上とする。

 書名にも凡例1にもある「東亜」の語義は、『日本国語大辞典』によると「アジア州の東部。中国・日本・朝鮮などの総称。極東」であるが、昭和13(1938)年に第1次近衛文麿内閣が発表した「東亜新秩序」の「東亜」を昭和27(1952)年の時点で(実際は)どの程度揺曳ようえいしていたのだろうか。
 それはそれとして、【図3】と凡例2にあるように、日本語文とラテン(拉丁)語文とが併置されていることには少し驚く。自然科学の本であるから、さほど驚くことではないかもしれないが、一般向けの本とはみなしにくく学術的である。こういう本も春陽堂は出版していたことがわかる。この凡例2で使われている「記相文」はおそらく「キソウブン」という語を文字化したものであろうが、『日本国語大辞典』は「きそうぶん」を見出しにしていない。調べてみると、「記相(diagnosis)」は、生物がもつ主要な形質のすべてについて記述する「記載」の中で、当該分類群に固有な形質だけを記述したものとのこと。生物の分類群を定義するためのものだ。『日本国語大辞典』は見出し「きさい(記載)」の語義(2)で「生物分類学で、学名を発表するさい、新種の形質・特徴を記述すること。また、その文。原記載」と説明している。
 凡例4の「漢字は当用漢字に限らぬ」はいいとして、「新仮名遣を用」いないという判断はどういうことだろうか。「書き手」がまだ「新仮名遣」になじまないということはあろうが、和名が、例えば「シホカゼザクラ」というかたちで認識されているために、それを「シオカゼザクラ」としにくいという「心性」によるのではないかと推測する。つまり、いわゆる「歴史的仮名遣」で「シホ」と書いていた語を「新仮名遣」で「シオ」と書くのは、「書き方が異なるだけ」と思いにくいということだろう。あえて四角四面にいえば、「シホカゼザクラ」と「シオカゼザクラ」とは別物という「心性」ではないか。この「心性」は現在もあると感じる。
 さて、【図3】の日本語文の後から4行目に「腊葉庫」とある。これもあまり見ない語である。『日本国語大辞典』の見出し「さくよう」には次のように記されている。

 さくよう【腊葉】〔名〕(「さく」は「腊(せき)」の慣用読み)植物を平らに押して乾燥した標本。一定の大きさの台紙にはり、研究に必要な事項を記入したラベルを付け、腊葉集などにして研究に役立てる。押し葉標本。
 この「腊葉」を収める場所が「腊葉庫」であろう。ちなみにいえば、「腊」字はJISコードを与えられていないので現在も検索がしにくい字である。【図3】をよく見ると、「腊葉庫」の「腊」字を「葉庫」と比べてみると、少しデザインの調子が異なるようにみえる。活字であっても、この「腊」字は一般的ではなかった可能性がたかい。いろいろなことがわかっておもしろい。
 3行目には「廓大鏡下に照して始めて見える小突起」とある。「カクダイキョウ」にあてる漢字列としては「拡大鏡」が一般的であろうが、芥川龍之介「侏儒しゅじゅの言葉」にも「廓大鏡」が使われており、誤植ではない。
 5行目「葉は花時には暗緑色又は白赤橙褪色無毛」の「暗緑色」は「アンリョクショク」でわかるが、「白赤橙褪色」は一つの色の名(絵具のように交ぜる?)なのか、幾つかの色をまとめて表現しているのか。悩み、調べ、結局わからない、ということも本を読むおもしろさと思いたい。 
(※レトロスペクティブ…回顧・振り返り)

『ことばのみがきかた 短詩に学ぶ日本語入門』(春陽堂ライブラリー3)今野真二・著
[短いことばで、「伝えたいこと」は表現できる]
曖昧な「ふわふわ言葉」では、相手に正確な情報を伝えることはできない。「ことがら」・「感情」という「情報」を伝えるために、言葉を整え、思考を整える術を学ぶ。

この記事を書いた人
今野 真二(こんの・しんじ)
1958年、神奈川県生まれ。清泉女子大学教授。
著書に『仮名表記論攷』(清文堂出版、第30回金田一京助博士記念賞受賞)、『振仮名の歴史』(岩波現代文庫)、『図説 日本の文字』(河出書房新社)、『『日本国語大辞典』をよむ』(三省堂)、『教科書では教えてくれない ゆかいな日本語』(河出文庫)、『日日是日本語 日本語学者の日本語日記』(岩波書店)、『『広辞苑』をよむ』(岩波新書)など。