《国境を越えて》 愛のくらし

 ドイツのコンチネンタル・タンゴ・バンド、アルフレッド・ハウゼ楽団の来日コンサートに私がゲスト出演することになった1971年、巨匠アルフレッド・ハウゼさんが私のために作曲してくださったのがこの「愛のくらし」です。
 コンサートで私が日本語の歌詞を作って歌う、という企画でした。
 71年といえば、「知床旅情」が大ヒットし、アルバム『日本哀歌集』が、加藤登紀子の「おとき節」なんて言われてすっかりおなじみになり、オリジナル曲も「ひとり寝の子守唄」が知られ、なんとなくモノクロームなワビサビのトーンで推移していました。
 その中でハウゼの曲は、パッと華やかで美しいメロディ。私は思い切って初めて「愛」という言葉を使うことにしました。
 20代後半、それで初めて「愛」ですか? と言われそうですが…。
 ここまで作ってきた歌は、女の気持ちをまっすぐ歌うことを避けていたようなところがありました。照れくさかったんですね。
 でも「愛のくらし」とタイトルを決めてからは、あっという間に、シーンが浮かびました。
 その頃、結婚なしで一緒にくらし始めるスタイルが流行り始めていましたからね。
 私自身も68年に出会った人と、もっと気楽に会えるように、両親と同じマンションの別の部屋に引っ越していたので、同棲生活のようなものでしたね。
 この歌は、西陽が射すような男の子のアパートに、女性が押しかけちゃう、というパターンです。鍋釜や、家財道具一式じゃなく、花束を抱えて、ね。
 本当の結婚じゃなく、「結婚ごっこ」のような日々。嬉しくて嬉しくてたまらない時間。でも、いつか別れると知っているような、予感にふるえながら…。
 2番はもう別れです。どうしても結婚できると思えなくて、いつもいつも別れるシーンばかり思い描いていましたから、別れを描くのは得意中の得意。
 愛は確かめられないものだから、一緒にいる時にはいつも不安で、少し寂しいもの。でも別れた後は、なぜか身体中に満ちるんです。相手がそこにいないからこそ、自分の中の愛が溢れてくる。本当はそれが一番幸せなのかもしれないですね。

 初めて「愛」を描けて初々しく嬉しい私でした。
 でも、これはステージで歌うだけ、と思っていたので、思い切りのびのび楽しんでいたのですが、突然アルフレッド・ハウゼ楽団の演奏で録音された伴奏が送られてきました。私の歌を入れるだけで仕上がるオーケストラ。声の高さも打ち合わせしていないのに? 私はびっくりしましたが、その音の美しさに驚きました。声はいつもより高く、高音部はファルセットを使って歌うことになりました。
 無事レコーディングも終わり、リリースされたのですが、実はさっぱり売れなかったのです。
 というより、その年は「知床旅情」で明け暮れていたので、「愛のくらし」が注目される余地がなかったのでしょう。
 そして翌年の1972年5月、私は突然結婚してしまったのです。
 学生運動のリーダーだった藤本敏夫の裁判が終わり、3年8カ月の実刑判決を受けて下獄した彼との間に、子供ができていたからです。
 この決断までの苦悩の時間が噓のように、結婚を決めてからは、幸せいっぱいでした。なぜか、「愛のくらし」のシングルジャケットで着ている服は、結婚記者会見の時の服と同じです。
 そして1972年の7月25日、日比谷野音でのコンサートを最後に私は出産休業に入ってしまいました。

アルフレッド・ハウゼと「愛のくらし」レコーディングスタジオにて。1971年

 不思議なことに、1972年4月の渋谷公会堂のライヴでも、この夏の日比谷野音でも、しかも1年後の1973年7月に行った復活コンサートでも私は「愛のくらし」を歌っていないのです。
 シングル発売しているのに、どうしてだったのか。アルフレッド・ハウゼのオーケストラの音源をバンドで演奏するのが難しかったからかもしれませんが、多分、ヒットしなかったということで、私の中でもうピリオドを打っていたのかもしれません。
 でも毎年のように来日していたハウゼさんからは、こんな言葉が伝わってきました。
「『愛のくらし』はその後どうですか? あの歌は、日本の人が絶対大好きになるはず。必ずヒットしますよ。」

 そうして、出産休業中のある日、北海道のラジオ番組で「愛のくらし」がベストテンに入った、というニュースが飛び込んできました。まだ歌手復帰を模索してバタバタしている頃、私に「愛のくらし」を歌う仕事の依頼が来たりし始めたのです。
 出産後の体が不安な私に、「あなたの体は、今膨らんだ風船がしぼんだような状態で、使いものにならないはずですよ」と言う人がいて、その人の勧めで、初めてのヴォイストレーニングを始めたりして、何とか応えようとした私でした。
 キーが少し高くて大変だった「愛のくらし」が、途切れた歌手活動からの再スタートに、大きなエンジンをかけてくれることになりました。
 後でわかったのは、札幌のレコード店で、ある店員さんが、売れなくてほこりをかぶっていた「愛のくらし」のドーナツ盤を見つけて、毎日店頭でかけてくださったそうなのです。
 今もリクエストの多いこの歌の、すごい生命力と、この偶然の出会いのありがたさを、奇跡のように思います。
(写真は筆者提供)

愛のくらし

作詞・作曲:トミー・チルドレン、アルフレッド・ハウゼ
訳詞:加藤登紀子 編曲:馬飼野俊一

この両手に 花をかかえて
あの日 あなたの部屋をたずねた
窓をあけた ひざしの中で
あなたは笑って迎えた
手をつなぎ ほほよせて
くり返す愛のくらし
花は枯れて 冬が来ても
すてきな日々はつづいていた
愛をかたる 言葉よりも
吹きすぎる 風の中で
求めあうぬくもりが
愛のかわらぬしるし
人はいくども 愛に出会い
終わりのない 愛を信じた
ある日気がつく 愛の終わりに
人はいくども泣いた
手をつなぎ ほほよせて
くり返す愛のくらし
花は咲いて 春が来ても
すてきな日々は戻って来ない
愛をかたる 言葉よりも
風にこごえた この両手に
あなたの身体の ぬくもりが
今も消えずに 残る

 2021年9月1日発売 3枚組CD『花物語』収録

(JASRAC許諾第9023555003Y38029号) 


この記事を書いた人
加藤 登紀子(かとう・ときこ)
1965年、東大在学中に第2回日本アマチュアシャンソンコンクールに優勝し歌手デビュー。「ひとり寝の子守唄」「百万本のバラ」「知床旅情」「琵琶湖周航の歌」などヒット曲がある。N.Y.カーネギーホールで2度のコンサートを成功させたのに続き、92年にパリのラ・シガール劇場でコンサートが認められ、フランス政府より芸術文化勲章「シュバリエ」が贈られた。女優として『居酒屋兆治』(1983年)に出演。宮崎駿監督のアニメ映画『紅の豚』(1992年)では声優としての魅力も発揮。2021年、日本訳詩家協会 会長に就任。
公式ホームページhttp://www.tokiko.com 近著に「哲さんの声が聞こえる」(合同出版)「運命の歌のジグソーパズル」(朝日新聞出版)「自分からの人生」(大和書房)。新譜「花物語」(ユニバーサルミュージック)/YouTube「土の日ライブ」毎月11日配信。