【第61回】


都バス最長区間「梅70」で青梅へ
 その破格な路線バスの存在に気づいたのはいつか。今となってははっきりしないが、いつか乗ってやろうと、ずっと意識しつづけていた。それが西武新宿線花小金井駅から青梅車庫までを結ぶ都営バス「梅70」であった。「都営バス最長路線」として知られ、距離も時間も停留所の数もまさに「破格」。
 順に申せば、距離は約30キロ、時間は約2時間、停留所の数は81である。運賃は560円。何もかも、普段づかいする「都バス」の範疇からはみ出して豪儀だ。他府県の方からすると、そんな話を聞かされても困ると思われるかもしれないが、いちおう簡単にそのルートを。めんどうだから、分からないからいいやと思う人は、このあとしばらく、すっ飛ばしてください。
「花小金井駅」北口の停留所が始発(逆なら「青梅車庫」)。バスは青梅街道をずっとしばらく西進する。西武拝島線「東大和市駅」でロータリーへ入り、ここから青梅街道は斜めに北上し、新青梅街道をまたいで奈良橋交差点へ。ここから再びバスは西へ西へ、青梅街道をひたすら走る。狭山丘陵には狭山緑地があり、その北側は多摩湖である。
 次の中継地「箱根ヶ崎」駅までが長く、旧街道の趣を残す青梅街道のひなびた風情を車窓からふんだんに浴びることになる。沿道に商店は少なく(コンビニの類もほとんどない)、どこか田舎町の街道を旅している気分になる。「箱根ヶ崎」駅はJR八高線。青梅、入間、所沢、武蔵村山、羽村と多摩の西側の市と接して、周囲に茶畑を擁し、ここが東京とは信じられない光景が広がる。八高線を越えると青梅街道は新青梅街道と合流し、たちまち車線の広い幹線道路となる。「青梅」の表示もそのうち目に入り、ゴール近しの感が迫ってくるのだ。
「東青梅駅」で中央線の南側へ切れ込み、バスはのんびりと青梅市街を走り、青梅駅前に立ち寄って、目の前の「青梅車庫」が終点。これが「青梅70」である。いつでも乗ろうと思えば乗れる。しかし、目的地への移動手段としてのバス利用ではなく、ただ始発から終点まで乗って、帰って来ようというもの。実用ではない。いわば移動の「純文学」だ。いつかいつかとぐずぐずしているうちに、思い立ってから数年が過ぎていた。

昭和30年代前半生まれトリオ出陣
 実行をするのに仲間がいれば好都合だ。誘えばたいてい同行してくれる同世代の友人に「散歩堂」さんがいて、向こうからご一緒しませんかと誘われることもあり、ありがたい存在。ちなみに「散歩堂」とは、「一箱古本市」(本好きによるフリマ式古本市)へ出店する時の屋号で、これが通称となった。本職はまじめな勤め人である。つい先日も、落語会へ連れだってでかけ、ついでに北区王子を散歩してきた。その際、「梅70」の話もした。「おもしろそうですね。いつでもお誘いください」と言質を取っていた。
 希望日を出し合い、合致した7月某日、決行することになった。「散歩堂」さんは、「せっかくだから『脳天のうてん松家まつや』さんも誘いましょうか」と言う。「脳天松家」というのも同じく「一箱古本市」での出店名。古本、落語が趣味というのが、昭和30年代前半生まれトリオの共通点で話も合う。花小金井駅バス停で待ち合わせ。すでに行列ができていて、こんなに「梅70」の利用者があるのかと驚いたら、隣のバス停であった。到着した目当てのバスに、我々以外に乗ったのは4~5名だった。動き出したバスは青梅街道を東大和駅まではまっすぐ西進。途中、西武多摩湖線、西武国分寺線と鉄道が地上で交差する踏切があり渋滞が長い。このあたり、私がうろつくエリアで、「あ、ここは娘が生まれた病院」、「このうどん屋は昔、ブックセンターいとう(古本屋)だった」と2人にガイドとなって説明する。
 今回の道中でとくに目を引いたのが、先述した狭山丘陵の裾野を走る青梅街道の風情であった。道幅は狭く、沿道に建つ住宅すれすれのところをバスは走る。車窓の風景はなんともひなびていて、気分としては昭和である。火の見やぐらも見える。私はこういう風景は好きである。

「ぶたの駅」とは?
 下調べをしてこず、いきなり出合って目を引いた物件があった。一つは三角屋根を乗せた古い木造2階建ての建築で、見ると「武蔵村山観光案内所」の看板がある。しかし、どう見ても昭和初期の建物らしい。どういうことか。あとで検索して分かったのは、これが元は織物業の組合事務所だったことだ。ホームページ解説を借りれば「武蔵村山市周辺の地域は、大正時代から村山大島紬の産地として広く知られ、機屋や絣板製造業者が多く営業していた地域です。これらの織物業者等が同業者組合を組織し、製品の品質管理、販路の確保に努めてきました。組合事務所は、地域の織物産業の全盛期であった昭和3年に建てられ、館内には織物資料館があり、見学できます」。古建築を保存してそれを今に活用するというのは素晴らしいアイデアだ。一度ぜひ立ち寄ってみたいと思ったのだ(武蔵村山市本町2丁目2-1)。
 もう少し先、同じく左手に見えたのが「ぶたの駅」(武蔵村山市岸1丁目40-1)。ぎょっとするネーミングだが、駅舎を模した店舗らしい。これは帰宅後、多摩地区の情報誌『たまら・び』(「武蔵村山市と、瑞穂町」特集号、けやき出版)をチェックしたら出ていた。要するに、食肉卸業の会社が、一般客向けに販売する店とのこと。火曜日と金曜日の開店で、営業時間も午後4時間半と短い。事前に計画して訪ねないと、入店は難しそうだ。
 このあと、青梅車庫から青梅市街散策のことも書かねばならないが、また後日に改めて筆を起こしたい。


平岡円四郎に血を通わせた堤真一
 ずっとCSチャンネル銀河」で毎朝録画して、NHK大河ドラマ『徳川慶喜』(1998)を見ている。慶喜を演じる主演は本木雅弘。リアルタイムでは見ていなかった。というより、もともと大河を視聴する習慣がなかったのだ。現在(2021年)放送中の第60作『青天を衝け』は、ほぼ毎回見ていて、こちらの慶喜に扮するは草彅剛。「徳川慶喜」つながりでリンクし、参考のため再放送の1998年版も見始めたのだ。
 同じ歴史上の人物を、まったく個性の違う役者が演じると、いろいろ比較できて面白い。モッくん(本木雅弘)はいいですよ。『徳川慶喜』では、乳母の松島(架空の人物)を岸田今日子が怪演。不気味なことや縁起の悪いことばかり言って(「悪霊にございます」)、慶喜正室・美賀みか(石田ひかり)が気絶する。「松島、下がれ!」と慶喜。このユーモアは草彅慶喜にはない。
 さらに注目したのが慶喜小姓の平岡円四郎えんしろう。慶喜が信頼し、つねに随行する聡明な側近の平岡も両者では役柄がずいぶん違う。これは実在の人物で「慶喜の側近。慶喜上洛に伴い、近江守おうみのかみに任官する。定職につかずにぶらぶらして暮らしていたが、慶喜の小姓に抜擢され、その純朴な性格が慶喜に気に入られる。栄一と喜作を見込み、攘夷に逸っていた二人を慶喜に目通りさせ一橋家の家中に迎え入れる」(ウィキペディア)。
 ちなみに、歴代の大河ドラマで平岡は4度登場。配役を参考のため並べれば、『翔ぶが如く』(1990)は永田博丈ひろたけ。『西郷せごどん』(2018)は山田純大。いずれも2回だけの登場で、物語の中で重く扱われていない。『徳川慶喜』では新井「ずうとるび」康弘が扮し、21回も登場して印象を残す役どころ。ただし、これは慶喜を前に、ただ畏まるだけの堅物。新井も直線的演技に留まるしかなかった。平岡は暗殺されるが、そのシーンも報告のみに終わる。
 つまり、ほとんど生きた人物としての個性は感じられない演出しか、これまでなされてこなかった。『青天を衝く』は、それを革命的に変えた。変えたのは演出と、平岡をドラマの中で生きてみせた堤真一だ。芸者を妻に迎え、仲睦まじく暮らす日常のことも描かれ、べらんめえ口調で鷹揚に生きる円四郎は、堤真一という俳優を得て成り立つ人物像だった。くだけた洒脱さが目立つ人間味あふれる役どころは、堤がよく生かされた演出。
 暗殺シーンも雨中での壮絶な立ち回りと最期がたっぷり用意され、『徳川慶喜』での円四郎の死が事後報告だけだったのに比べ、扱いがずいぶん違う。『青天を衝け』は、新しい平岡像を(演出も含めて)作ったと言える。

(写真とイラストは全て筆者撮影、作)

『明日咲く言葉の種をまこう──心を耕す名言100』(春陽堂書店)岡崎武志・著
小説、エッセイ、詩、漫画、映画、ドラマ、墓碑銘に至るまで、自らが書き留めた、とっておきの名言、名ゼリフを選りすぐって読者にお届け。「名言」の背景やエピソードから著者の経験も垣間見え、オカタケエッセイとしても、読書や芸術鑑賞の案内としても楽しめる1冊。

この記事を書いた人
岡崎 武志(おかざき・たけし)
1957年、大阪生まれ。書評家・古本ライター。立命館大学卒業後、高校の国語講師を経て上京。出版社勤務の後、フリーライターとなる。書評を中心に各紙誌に執筆。「文庫王」「均一小僧」「神保町系ライター」などの異名でも知られ著書多数。Blog「はてなダイアリー」の「オカタケの日記」はほぼ毎日更新中。