南條 竹則

第18回 牡蠣船の妖

 学生の頃、神田のゾッキ本屋へ行って、いわゆる幻想怪奇文学の棚を見ると、桃源社の『日本怪談全集』という本が姉妹篇の『支那怪談全集』と並んでいたのを憶えている。
 著者は田中貢太郎(1880-1941)という。土佐に生まれ、大正から昭和の初めにかけて新聞などで活躍した作家で、怪談の好きな人だった。ことに松齢しょうれいの『聊斎りょうさい志異しい』をお手本にしたような話をいくつも書いた。
 その一つに、「牡蠣船」という話がある。粗筋を言うと、こうだ──

 秀夫という青年が大阪の新京橋の近くの銀行に勤めている。
 彼は田舎から出て来て、下宿で寂しい生活をしている。
 ある晩、活動写真を見たあとで新京橋の欄干にもたれていたが、ふと川縁にある牡蠣船の一室を覗いた。
 岸の柳がビロードのやうな若葉を吐いたばかりの枝を一つ牡蠣船の方に垂れてゐたが、その萌黄色の若葉に船の灯が映つて情趣を添へてゐた。秀夫はその柳の枝をちらと見た後に又眼を牡蠣船の方へとやつた。若い綺麗な女中が心持ち赤らんだ顔を此方へ向けてにつと笑つた。それは客と話をして笑つたものであらうが、自分の眼とその眼とがぴつたり合つたやうに思つて、秀夫は極まりがわるいのでちよと牛肉屋の二階の方に眼をやつた。と、彼は五六日前に友達の一人が牡蠣船に行つて、其処の女中から筑前琵琶を聞かされたと言つたことを思ひ出して、俺もこれから行つてみやうかと思つた。(『伝奇ノ匣6 田中貢太郎 日本怪談事典』東雅夫編 学習研究社661頁)
 秀夫は翌日銀行の仕事が終わると、日の暮れるのを待って、新京橋の牡蠣船に行ってみた。西洋料理を二皿とビールを注文し、あの綺麗な女中が来てくれないかと待っていたが、そんな女は現われない。
 翌晩、飯の済んだあとでまた新京橋へ行くと、
 牡蠣船はともの右の障子が開いて綺麗な女中が何時かの所に坐つて琵琶を弾いてゐた。秀夫は欄干に添ふて立つてぢつとその方へ眼をやつた。と、綺麗な女は此方を見て紅い唇を見せてにつと笑つた。彼はそのまゝ牡蠣船へと行つた。(同666頁)
 けれども、船にはその綺麗な女はいない。それなのに、船から出て橋の上からふり返って見ると、やはり女の姿が見えるのだ。
 秀夫は翌日も夜遅くに橋の上から牡蠣船をながめていた。
 すると、
「今晩は」
 と若い女が傍から声をかけた。見れば、あの女である。秀夫は女に誘われて彼女の家へ行き、一晩中歓楽に耽った。
 気がつくと、枯蘆かれあしの中の小さな祠のそばに寝ていた。秀夫を揺り起こしたのは白髪の老人で、
「弁天島の綺麗な後家神に、いたぶられたらう、ぐずぐずしよると生命がないぞ」
 と老人は言った。
 アッケないといえばアッケない話だが、細部に独特の味がある。田中貢太郎のそういう作風を、わたしは中年を過ぎてから好きになった。自分も真似して怪談を書いてみたことがあるが、上手く行かなかった。
 さて、この短篇を読んだわたしは牡蠣船というものに是非乗ってみたくなり、大阪へ行った際、友人に連れて行ってもらった。関西を襲った大地震の少し前か後のことだ。
 店は「かき広」といい、淀屋橋の袂に船をもやっている。
 入口から斜めの階段を渡って船に入り、三人で酒を飲んだ。
 座敷の窓からは、青い川の向こうに夕暮れの街が見える。水べりの情緒というものをあまり味わえない東京の人間には、大阪人が羨ましい。
 弁天様はいなかったが、仲居さんが酒や料理を運びながら、天神祭の時は船を動かして、どこそこまで行くのだなどと話してくれる。
 牡蠣酢、酒蒸し、ぬた、フライ、土手鍋、そして最後に名物の牡蠣茶漬けを食べた。これは牡蠣の炊き込み御飯に大根おろしをたっぷりのせて、アツアツの出汁だしをかけたものだ。
「かき広」のことかどうかはわからないが、大阪の牡蠣船について、ダダイストの辻潤がこんなことを書いている。
 大阪へ初めて行った時に、牡蠣船でどて焼き・・・・を初めて食ってまったくこれはうまい・・・と思った。焼き豆腐と芹を入れて食うのだが、あとでダシを釜飯にかけ、海苔と山葵わさびを搔きまぜて食う味はまったくたまらない。大阪というとすぐ私はどて焼きを連想する。
(「続水島流吉の覚書」『絶望の書・ですぺら』講談社文芸文庫245頁)
 文中「どて焼き」とあるのは土手鍋の間違いかと思うが、牡蠣茶漬けの旨さはここに言う通りだった。


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この記事を書いた人
文/南條 竹則(なんじょう・たけのり)
1958年生まれ。東京大学大学院英語英文学修士課程修了。作家、翻訳家。
『酒仙』で日本ファンタジーノベル大賞優秀賞を受賞。以後、幻想小説、温泉、食文化への関心が深く、著書も多い。主な著書に、小説『魔法探偵』、編訳書『英国怪談珠玉集』など多数。

絵/橋本 金夢(はしもと・きんむ)