第21回 橋本英吉『坑道』現代の辞書には載っていない語

清泉女子大学教授 今野真二
 今回は橋本英吉『坑道』(昭和14(1939)年4月15日)を採りあげてみよう。橋本英吉(明治31(1898)年~昭和53(1978)年)は福岡県築上郡東吉富村に生まれる。大正3(1914)年に筑豊炭田の炭鉱だった三井田川鉱業所に入り、坑夫として働いた。大正11(1922)年に上京し、13年1月には博文館印刷に入社する。大正15(1926)年11月に『文藝時代』に坑夫としての体験をもとにした「炭脈の昼」が載り、翌年文藝春秋社に入社。プロレタリア文学運動に参加する。

【図1】

 それから10年以上を経て『坑道』が出版されたことになる。【図1】は中扉で下部に「春陽堂版 生活文学選集第五巻」とある。装幀は中川一政が担当している。このシリーズは函入りで、本の末尾には「生活文学選集」「書下し長篇全十巻」の広告が載せられている。定価は「各冊1.70銭」になっている。広告に載せられている作品を幾つかをあげてみよう。
漁業生活小説    間宮茂輔 『怒濤』
都会工業生活小説  徳永直  『はたらく人々』(第17回参照)
農村生活小説    和田伝  『家長』
地方工業生活小説  中本たか子『建設の明暗』
農民生活小説    伊藤永之助『雁』
浮浪者生活小説   大江賢次 『我らの友』
炭坑生活小説    橋本英吉 『坑道』
飯場生活小説    葉山嘉樹 『流旅の人々』
海員生活小説    広野八郎 『西南の海』
 予告とは異なる作品を出版することもあったと思われる。大鹿卓は広告にあるものとは異なるタイトルの『金山』を「生活文学選集第8巻」として昭和14(1939)年7月17日に発行している。
 さて【図2】は本文の末尾であるが、「湯本 文泉堂」というスタンプがおされている。実は1ページにも同様のスタンプがおされており、3・4ページには「貸本」というスタンプがおされている

【図2】

「湯本」とあるので箱根湯本のことかと勝手に想像し、インターネットで少し調べてみたところ、ありました! 箱根湯本に「文泉堂」という名前の文房具店があった。そこまでしかわかっていないので、貸本屋「湯本文泉堂」とは何のかかわりもないかもしれない。しかしまた、文房具店がかつては貸本業を営んでいたという可能性はゼロでもないだろうと思ったりもする。
 筆者は、「本を物として捉える」という「みかた」も重要だと考えている。物としての本には、蔵書印がおされていたり献呈者相手が記されていたりする。所蔵印から、具体的に「どこの誰か」ということがつきとめられることはさほど多くはないが、おそらくはそうだろうというところまでわかることもある。蔵書印が複数おされているにもかかわらずいいコンディションである場合には、これまでみんな大事に扱ってきたのだから自分も大事に扱わないといけないなと思う。筆者は、今所持している本は「預かり物」だと思っている。たまたま今、預からせてもらっている。いずれはまた別の人のもとに行く。あるいは図書館のようなところに収められるかもしれない。だからせいぜいコンディションを保つようにこころがけるということだ。
 今回も気になったところを書き出してみる。

1 遠藤は背の蓄電池を外して、シヤツの下に成木なりき(小さな松の木)をさしこんで背を搔きながら、軽蔑するような微笑をうかべて云つた(5頁)。 
2 午後一時をすぎたころ、捲立まきたて(運搬幹線との交叉点)の方から小頭の南がきた(12頁)。
3 彼等は午後十時に入坑した三番方さんばんかただつた。ところが運搬幹線で志繰しくり作業をしてゐた支柱夫しちうふが、交代間際になつて高落たかおちをさせ、炭車の廻送が狂ひ、最初の七十かんだけは出炭したが、あとの空車は補充が絶えてしまつたのだ(3頁)
4 七八年前、坑内で棹取夫さおどりふと喧嘩したことがある(9頁)。
5 まはるとも、俺が函繰はこぐりになるけん。ほしたら函繰はこぐりを積込みにまはせる(13頁)。
6 彼の主な仕事はコール・ピツクで下透したすかをやるたり、発破孔はつぱこうをくることだつた(17頁)。
7 カツターから突出したバーは、全速力で回転しながら二十本の鋼鉄の爪で、炭壁すみかべを斫りおとして居る(43頁)。
8 五十すぎても体さへ丈夫なら働くとがあたりまへぢやらう。そのにかいしよ・・・・がなけりや、死ぬまで坑内でも何処でも働かにやならんし、かいしよ・・・・があれば小頭にでもなつちよる(6頁)。
 1では「ナリギ(成木)」の後ろに「小さな松の木」という説明が丸括弧に入れて添えられている。2では「マキタテ(捲立)」が「運搬幹線と片磐の交叉点」と説明されている。これらの「ナリギ」「マキタテ」は『日本国語大辞典 第二版』の見出しになっていない。それどころか、「運搬幹線」も見出しにはなっていない。
 3では幾つかの語に振仮名が施されている。「シクリサギョウ(志繰作業)」、「シチュウフ(支柱夫)」、「タカオチ(高落)」、いずれも『日本国語大辞典 第二版』が見出しとして採用していない語である。4の「サオドリフ(棹取夫)」、5の「ハコグリ(函繰)」、6の「シタスカシ(下透し)」、7の「スミカベ(炭壁)」も見出しになっていない。
 8では「かいしよ」に傍点が附されている。「カイショ」はもちろん「カイショー(甲斐性)」の短呼形であろう。こうした、標準的ではなさそうな語形に傍点が附されることもある。
 人間の具体的な生活、営みを描写する文学作品に、いろいろな語を「発見」することは楽しい。
(※レトロスペクティブ…回顧・振り返り)

『ことばのみがきかた 短詩に学ぶ日本語入門』(春陽堂ライブラリー3)今野真二・著
[短いことばで、「伝えたいこと」は表現できる]
曖昧な「ふわふわ言葉」では、相手に正確な情報を伝えることはできない。「ことがら」・「感情」という「情報」を伝えるために、言葉を整え、思考を整える術を学ぶ。

この記事を書いた人
今野 真二(こんの・しんじ)
1958年、神奈川県生まれ。清泉女子大学教授。
著書に『仮名表記論攷』(清文堂出版、第30回金田一京助博士記念賞受賞)、『振仮名の歴史』(岩波現代文庫)、『図説 日本の文字』(河出書房新社)、『『日本国語大辞典』をよむ』(三省堂)、『教科書では教えてくれない ゆかいな日本語』(河出文庫)、『日日是日本語 日本語学者の日本語日記』(岩波書店)、『『広辞苑』をよむ』(岩波新書)など。