《運命の人と》
 どんな出会いも偶然から始まっています。でもその偶然が、不思議な縁で結び合うことで、かけがえのない物語が生まれます。
 10月に選んだ4つの歌は、それぞれが素晴らしい出会いから生まれた歌ですが、結果的には2002年に他界した夫、藤本敏夫に繋がる物語になりました。
 藤本敏夫は1944年1月23日、兵庫県の西宮市甲子園町で生まれ、鳴尾高校から同志社大学の新聞学科に進み、1967年に府学連のメンバーとして上京し、翌年に反帝全学連委員長になり、1968年、69年、反ベトナム戦争反対運動の先頭に立ちました。その結果、1972年4月、裁判で実刑判決を受けて下獄。その5月、私たちは結婚しました。
 2年半後に出所してからは、日本の農業問題に取り組み、千葉県の南房総に「鴨川自然王国」と銘打った農場を残し、2002年7月肝臓がんで他界しました。58歳でした。歌が大好きで、歌手としての加藤登紀子にもたくさん影響を与えた人、と言えます。
 没後19年、今もその生涯は鮮やかに残っています。

《運命の人と》 わが人生に悔いなし
 1986年、なかにし礼さんから2つの歌詞が送られてきました。専用の原稿用紙に青いインクの万年筆で書かれた美しい原稿です。
 石原裕次郎さんのために曲を作るように、という依頼でした。
 礼さんと私はデビューの時からの深いご縁で、デビュー曲の「誰も誰も知らない」も書いていただいています。その後も何曲かレコーディングしていますが、作曲の依頼は初めてでした。
 今も思い出します。原稿を開いて目を通しているうちに、もう裕次郎さんの声で聞こえてくるようで、読み終わる頃には、曲ができていたくらい、あっさりと「わが人生に悔いなし」の曲が決まりました。もうひとつの「俺の人生」という歌に取りかかり、少し時間をかけて、シャンソン風の曲に仕上げました。こちらの曲はあまりポピュラーではありませんが、私は大好きで、ずっと後になって、この2曲をレコーディングさせていただいています。
 どちらも人生の晩年の想いが綴られ、辞世の歌、と言ってもいい内容でした。
 礼さんからはこれといった注文もなく、出来上がった曲をデモテープで送った時も、一切コメントはありませんでした。
 私は裕次郎さんとはお会いしたことがなく、レコーディングが初対面のはずでした。
 ところが裕次郎さんの体調が悪くなり、ハワイへ静養にいかれてしまったのです。しばらくしてハワイでレコーディングされたカセットが届き、その音源をちょうど一緒にいた父と繰り返し聴きました。
「この人は、もう自分の最後を知ってはるなあ。その気持ちが伝わってくる。素晴らしいなあ」と父が言い、曲を作った私も、完全に裕次郎さんの歌になっていることがとっても嬉しかったです。
 後になって礼さんに、どうして私に作曲を、と言ってくださったんですかと聞いたら、こう答えてくださいました。
「この歌は病院で裕ちゃんが人生最後の歌を、と言い出して、その時、ヒーロー石原裕次郎ではなく、普通の男の人生の歌にしたい、と話したんだ。だから、ヒーロー裕次郎を作り上げた作曲家ではなく、全く新しい出会い、ということでお登紀を僕は選んだ。だって僕らは、目の前でたくさんの人の死を見てきたじゃない。だから安心だった」と。
 なかにし礼さんは満洲の牡丹江生まれ、終戦の頃ハルビンへ逃げてきて、同じ頃私と同じ街にいたことになります。
 でもこの曲を作曲した頃は、なかにし礼さんはこの歴史を封印して誰にも語っていなかったので、このことはずっと後になってわかったことでした。

なかにし礼さんと最後に撮影した写真 2019年

 裕次郎さんはハワイのレコーディングから5ヶ月後に亡くなり、私はついにお会いすることができませんでした。NHKの追悼番組で渡哲也さんと一緒になった時、裕次郎さんのこんなエピソードを聞きました。
「晩年、病気のために厳しくお酒を禁じられていたけれど、どうしても飲みたくて、夜中にこっそりと台所に降りていって、一升瓶からコップに注いで飲んでいたそうですよ。食器棚のガラスに映る自分の顔に乾杯して、ね」
 この台所のシーンが、そのままこの歌の冒頭ですね。
 日本中の男が憧れたヒーロー石原裕次郎の、普通の男としての姿が浮かびます。
 実は藤本は、裕次郎さんが大好きでした。亡くなる前、同じように裕ちゃんファンの友達が裕次郎さんのCD BOXを病院に持ってきてくれていて、聴いていたらしいのです。
 忘れもしない2002年7月28日の午前中、病院に見舞いに行くと、彼はCDウォークマンで何か聴いていて、「ちょっと待て、これを聴き終わったら、ゆっくり話そうな」と言ったのです。
 残念ながら、その日私は羽田から岡山へ行く予定があり、ゆっくり話す時間はありませんでした。ギリギリまで病室にいて、結局飛行機には乗り遅れたのでしたが、岡山から帰った翌日には危篤となり31日に他界してしまいました。
 息を引き取った後、彼の病室にあったCDウォークマンの中には石原裕次郎さんのCDが入っていました。これが彼の最後に聴いたCDです。
 最後に聴いた歌が「わが人生に悔いなし」だった確証はありませんが、彼はこの歌が好きでしたから、きっとそうだったと、私は思っています。
 彼の人生に悔いがなかったとは思いません。なかにし礼さんも石原裕次郎さんも。戦う男たちに悔いのない人生なんてあるはずがありません。だからこそ、この歌がグッとくるんです。
(写真は筆者提供)

わが人生に悔いなし
作詞:なかにし礼 作曲:加藤登紀子 編曲:若草恵

鏡に映る わが顔に
グラスをあげて 乾杯を
たった一つの 星をたよりに
はるばる 遠くへ 来たもんだ
長かろうと 短かろうと
わが人生に 悔いはない
この世に歌が あればこそ
こらえた涙 いくたびか
親にもらった 体一つで
戦い続けた 気持ちよさ
右だろうと 左だろうと
わが人生に 悔いはない
桜の花の 下で見る
夢にも似てる 人生さ
純で行こうぜ 愛で行こうぜ
生きてる かぎりは 青春だ
夢だろうと 現実うつつだろうと
わが人生に 悔いはない
わが人生に 悔いはない

 2021年9月1日発売 3枚組CD『花物語』収録

(JASRAC許諾第9023555003Y38029号) 
この記事を書いた人
加藤 登紀子(かとう・ときこ)
1965年、東大在学中に第2回日本アマチュアシャンソンコンクールに優勝し歌手デビュー。「ひとり寝の子守唄」「百万本のバラ」「知床旅情」「琵琶湖周航の歌」などヒット曲がある。N.Y.カーネギーホールで2度のコンサートを成功させたのに続き、92年にパリのラ・シガール劇場でコンサートが認められ、フランス政府より芸術文化勲章「シュバリエ」が贈られた。女優として『居酒屋兆治』(1983年)に出演。宮崎駿監督のアニメ映画『紅の豚』(1992年)では声優としての魅力も発揮。2021年、日本訳詩家協会 会長に就任。
公式ホームページhttp://www.tokiko.com 近著に「哲さんの声が聞こえる」(合同出版)「運命の歌のジグソーパズル」(朝日新聞出版)「自分からの人生」(大和書房)。新譜「花物語」(ユニバーサルミュージック)/YouTube「土の日ライブ」毎月11日配信。