第7回 魂の還る場所

七北 数人


 小学4年の夏休み、幼な子をつれて遊びに来ていた姉のセキが帰る時、炳五も一緒に松之山へついて行くことになった。信越本線の安田駅から、乗合馬車でガタゴト3、4時間も揺られて行く山奥の辺地。途中には一面の棚田が青々と光って見えるのだが、炳五は景色を楽しむどころではない。お尻は痛くなるし、途中で気分が悪くなって吐きそうになる。ようやく辿り着いた時にはもうヘトヘトだった。
「慣れたら大したことないんだけどね」セキが炳五の背中をさすりながら、気の毒そうに言う。「もう少し近くのほうまで、新しい鉄道を延ばしてるらしいけど、まだ何年間かは未開の地だわね」
 村山家は鎌倉時代から続く旧家で、家長の政栄まさえは村長、その妻のさだは炳五の叔母である。かつて新潟女学校で英学を学んだという先進的な女性だ。いまは金井写真館になった建物が女学校だった。内装もしつらえもモダンでエキゾチックなその場所で、アメリカ人の宣教師から教えを受ける叔母の姿。秘めた恋の行方を妖しく想像した幼稚園の頃を思い出して、炳五は少しドキドキする。
「よう来たな、ヘゴサ。疲れたろう」
 貞は妖しさのカケラもないニコニコ顔で迎えてくれた。まだ40代で、思いのほか若々しい。セキにとっても叔母に当たる人だが、セキの夫真雄は政栄の前妻の子なので、血族結婚ではない。
「途中で酔っちゃって大変だったけど、もう大丈夫よね。ひたじ飯、すぐできる?」
「わあい、ひたじ飯、ひたじ飯!」まだそれほど喋れもしない幼な子の政光が大はしゃぎで台所のほうへ駆けて行く。
「すぐできるけど、もう食べられっか?」貞に問われ、炳五は大きく頷いた。
「うん、政光の喜びようを見たら、急に腹が減ってきたよ」
 そのうちに、真雄と政司まさじの兄弟も顔をそろえ、みんなでひたじ飯を食べることになった。
「おまえらは昼飯をたらふく食ったろうが」政栄が呆れ声で言うと、
「大丈夫。ひたじ飯は腹に溜まらんから」真雄が自分の腹をポンと叩き、政光が笑ってマネをする。
 真雄は何度か坂口家へ遊びに来たことがあるので、炳五も覚えている。この義兄は21歳も上だが、まるで子供のような雰囲気があって、誰にも隔てがない。長いこと会わないでいても、すぐに打ち解けられた。
 政司のほうは貞の実子なので、炳五やセキとは従兄弟の関係にもなる。炳五より9歳上の数え年20歳で、画家志望らしい。
「兄さんの献ちゃまは絵が上手だったけど、ヘゴサも絵描くんかい」政司もざっくばらんな感じで訊いてくる。
  炳五はちょっと詰まったが、大きく頷いてみせた。
「相撲の漫画とか、野球の漫画とか、講談を漫画にしたり、いろいろ描くのは好きだよ」
「ああ、相撲の四十八手とかな。献ちゃまも画帳にびっしり描いてたな」
「うん、絵は兄さんのマネで始めたから、描くモノも似ちゃってね。だから全然敵わないことも一目でわかるんだ」
「あとで描いてみせてくれよ。絵はウマイヘタ関係なしに、描く人間の味が出るもんさ」
 何年か前、学校でイヤなことがあって、部屋でふて寝していた時、献吉が入ってきて「炳五しょげるの図」をサラサラと描いてみせてくれ、思わず噴き出してしまった思い出がよみがえる。いまは療養所にいる献吉には、もっといろんなことを聞いてみたかった。詩や音楽のよさも丁寧に教えてくれたが、その方面はまだよくわからなかったのだ。
 食卓に出てきたひたじ飯を見て、炳五は「あっ」と声を上げた。「おけさ飯だ!」
 ごはんの上に、ゆで卵の黄身と白身を別々に裏ごしにしたのと、刻み海苔とを3色に分けて載せ、ワサビを添えて出し汁をかけるだけのどんぶり飯。
「そう、おけさ飯よ」セキがニッコリ笑って言う。「坂口家伝統の味。こっちのオッカサマは、ひたじ飯って聞いて覚えたらしいんだけど、どっちの呼び方が先なんかね。こっちでは三つ葉も載ってるんさ」
 坂口家では、おけさ飯だけは女中でなく、あの鬼みたいなオッカサマが手ずから作ってくれる。炳五がおけさ飯を大好きになった本当の理由はそこにあるのかもしれないが、自分ではそうと意識していなかった。
 村山家でもみんな大好きと見えて、あっという間に掻っ込んで食べてしまった。
 夕食までの空いた時間、炳五は家の周辺をあちこち探険して回った。
 近隣でもかなり高台にある村山家だが、その背後にも覆いかぶさるように小高い山が連なり、ブナの森になっている。森からは蝉の声やいろいろな種類の鳥の声が聞こえてにぎやかだ。庭にはたっぷりと水をたたえた池が広がっている。風情よく設えられた滝が山の水を引き入れ、蛙の声がそこらじゅうから湧き起こっていた。
 しゃがんで池の中をのぞきこむと、オタマジャクシも気持ち悪いぐらいに固まって泳いでいるし、そいつらを食ってしまいそうな大きな鯉や小さなメダカもうじゃうじゃいる。アメンボたちはツイー、ツイーと無心に水上のスケートを楽しむ。葦の葉ずれが人の話し声のようにあちこちで響き交わし、シオカラトンボが風に乗って、ゆらゆらとくっついたり離れたりする。
 水辺の生きものたちを見守るかのように、苔むした石灯籠がやさしげに立ち、少し小高い丘のようになった奥手には薪小屋があって、菱の密生する沼があった。ひとりでいると知らぬ間に沼底へ誘いこまれていきそうで怖い。不気味なのに惹かれてしまう、不思議な魔力を秘めた空間。
 オレは昔、ここに来たことがある。炳五はそんな気がした。初めてのはずなのに、なぜか懐かしい。人間などどこにもいなかった時代。太古の森。自分が生まれる以前の自分の心は、もしかしたらここにあったのかもしれない。そんなふうに思っていると、魂がすうっと体から抜け出て、どことも知れない闇の奥へ吸われていきそうになる。
 危ない、と思って激しく首を振ると、森の奥で何羽もの鳥がとつぜん大きな声で啼いて飛び立った。ここでなら、何が起こっても不思議でない。誰も知らない歴史が、ここでは永遠に繰り返されている。この先、オレは何度でもここへ来ることになるだろう。炳五はそう予感した。オレにとっての本当のふるさとは、きっとここなのだと、そんなことも漠然と思っていた。
 夕食のあとは、みんなで絵を描いたり、絵にコトバを付けたりして遊んだ。真雄と政司は酒を飲みながら即興でフザケて描くので、頭の鉢だけ極端に大きな人間が出てきたり、村長らしいのは政栄のカリカチュアだが、胸をそらしてこっそりオナラをしていたりする。炳五は大喜びして、自分も真田十勇士や孫悟空の漫画を描きこんだりして遊んだ。
「思ったとおりウマイもんだな」政司が炳五の絵を手にとって褒めてくれる。「清海入道の悔しがってる表情なんか、性格までにじみ出てて、まるで生きてるみたいだ」
「ヘゴサは忍者大好きだもんね」セキが楽しそうに言う。
「じゃ、ここで一句」と真雄が口髭をひねる。「猿飛を捕らえてみればタコ入道。こんな感じか」
「そりゃひどい。場面そのままじゃないか」
 政司が笑い、真雄も照れてお猪口の酒をグイッと空けた。村山家は豪農で酒造業もやっているので、飲む酒はすべて自分の酒蔵で醸した「越の露」だ。
「この酒が飲みたくてか、親父が村長だからか、村の内からも外からも有名無名いろんな人がやって来るんだ」真雄が言い、セキがそばに置いてあった「宿帳」を開いて見せてくれる。「旅館はやってないけど、どんな人でも大歓迎、いつまで滞在してもかまわない、それがウチの流儀。そういうわけで、泊まった人にはこの宿帳に一筆書いてもらってるのさ。もちろん名前だけでもいいが、絵でも歌でも好きなように書いていいんだ」
「ふうん、自由でいいなあ」炳五は感心する。
「おまえのお父サマの五峰先生がそういう人だった。オレは新潟中学に行ったから、5年間、坂口家に寄宿したんだがね、明治30年から35年ぐらいまでかな、おまえは知らないだろうが、あのウチは昔、どんな人間でも来る者拒まずで、そりゃもう壮観だったんだ。頭のネジの何本かゆるんだようなヘンテコな人間たちが、いつもうじゃうじゃ棲みついてた。犬の鳴きマネばかりする親戚もいたし、囲碁仲間やら按摩やら、よかよか飴屋の爺さんなんてのも泊まり込んでた。その爺さんは頭の上にタライのっけて、そこへ日の丸の旗をグルリと立て並べ、『日清戦争帝国万歳!』なんぞとはやしながら飴を売り歩くんだ」
 初めて聞く話に、炳五は目を丸くした。自分の前ではいつも苦虫をかみつぶしたような顔をして喋らない、笑った顔など見たこともないあの父が、そんな大様な自由人だったなんて、とても信じられない。
「心底、感銘を受けてなあ。オレもちょっとはマネをしてみたいと思って、まずは宿帳を作ったわけさ。和歌や俳句を詠んだりしてるのも、五峰先生の影響かな。先生の漢詩とはだいぶん趣が違うけど、誰かに褒めてほしいとかは全く思わない。自分の心に感じたことを、感じたまま、自然に口をついて出たら、それがオレにとっての最高の歌さ」
 真雄は酒を飲みながら、小学4年生の炳五を相手に、大人の会話を楽しんでいた。歌人ではなく、死ぬまでただの文学愛好家、アマチュアの精神を忘れたくないから、自分はどの派にも属さない、山から山へと渡り歩く漂泊民「山窩さんか」みたいに自由でありたいと言う。
 話は次から次へと飛び移り、千里眼の御船千鶴子の話から、魔法使い、オカルトの話、宇宙や大自然の神秘、アインシュタイン、天変地異、坂口家の周囲で起こった2度の大火の話、なにもかもが不思議な運命のようにつながっている、みんな得体の知れない深い淵から湧いて出るもので、すべての物事が文学や芸術の源泉だと、そんな話を真雄は炳五にもわかるように易しい言葉で話した。
「不思議なことはオレも大好きだ」炳五は目を輝かせて言った。「人間が作るモノだって不思議だよね。電気製品や巨大な橋や、家具ひとつでもスゴイもんだと思う。自分も大きくなったら、こんなものを作れるようになるのか、なんて思うと気が遠くなるよ」
「うん。ヘゴサは山窩の仲間だ。同志だ」
 真雄が変な太鼓判を捺し、政司も楽しげに杯を重ねた。
(第8回に続く)
 ≪≪編著紹介≫≫
『残酷な遊戯・花妖』(春陽堂書店)坂口安吾・著
本のサイズ:四六判/上製
発行日:2021/2/17
ISBN:978-4-394-90392-5
価格:2,640 円(税込)

この記事を書いた人
七北数人(ななきた・かずと)
1961年9月23日名古屋市生まれ。大阪大学文学部卒。
出版社勤務をへて、90年頃から文芸評論活動を始め、『坂口安吾全集』の編纂にも関わる。
主な著書に、『評伝坂口安吾 魂の事件簿』(集英社、2002年)などがある。