せきしろ

#8
想像から物語を展開する「妄想文学の鬼才」として、たとえる技術や発想力に定評のあるせきしろさん。この連載ではせきしろさんが、尾崎放哉の自由律俳句を毎回ピックアップし、その俳句から着想を得たエッセイを書き綴っていく(隔週更新)。第8回目は次の2本をお届け。

月夜風ある一人咳して
  大正一五年 『層雲』新年号 島の明けくれ(三一句)
みんなが夜の雪をふんでいんだ
  大正一五年 『層雲』五月号 虚空実相(三一句)
放哉の句から生まれる新たな物語。あなたなら何を想像しますか? 

 月夜風ある一人咳して
春の夜。風が吹いているがもう寒くはない。むしろどこか温かさを感じる。
コンビニへ行って買い物をして、帰りは来た道とは別の道を歩く。なぜなら途中に雑木林がある。不規則に樹木が立っていて、どれが何という名前の木なのかはわからない。ただ、秋になるとどんぐりが落ちているので、ブナの木か何かはあるのだろう。
街灯は遠くにあって明かりのない雑木林は暗い。その中で風が木を揺らしているのがわかる。音も聞こえてくる。
私はその音が異常に好きで立ち止まってしばらく聴き続ける。そう、そのためにわざわざ回り道をしたのだ。暗闇の中で木が揺れる音など、恐怖を感じてもおかしくないし、シューベルトの『魔王』だと子どもが死んでもおかしくないのだが、私は心地よくなる。「ザーッ」だとか「ザワザワ」だとかでは足りなく、とうてい文字にはできない音を聞いているうちに私は色々と想像してしまう。
もしもいつか森で迷ったら夜中にこの音をじっとひとり聞くのだろう。もしも何か罪を犯して山に逃げ込み隠れなければいけない時もこの音をひとり聞くのだろう。もしもどうしても死ななくてはいけなくて森を彷徨っている時もひとりこの音を聞くのだろう。そしてそれらを経験した人はたくさんいるんだろう。
月の周りの雲の動きが速くなり、風が強くなってきたのがわかる。音がさっきとはまた変わってきている。このままだと朝までいることになってしまうので、私は歩き出す。
家に着き、玄関で靴を脱いだところで切手を買っていないことに気づく。そもそもコンビニには切手を買うために行ったというのに、お菓子とみかんのゼリーとおにぎりとお酒しか買ってない。
早く請求書を送らなければいけないというのに。


 みんなが夜の雪をふんでいんだ
吉祥寺から五日市街道を環八に向かって歩いていくと、途中中央線の高架と交差するところがある。そこで曲がって高架下を歩いていくと西荻窪に着く。私はかつて25年くらい西荻窪に住んでいて、吉祥寺から歩いて帰る場合このルートを利用することが多かった。
このルートが近道なのかどうかは知らない。利点は高架が屋根代わりになって雨や雪が防げるということだ。他に利点はなく普段は薄暗くて空気の循環が遅く、単調な景色が続くだけの道である。
雪が降った次の日、私は高架下を歩いていた。午前10時の高架下はほとんど人がいない。コンクリートの色とアスファルトの色が続き、そこに停められている車の色が加わる。日光はほとんど差し込んでいないというのに、その光でさえ柱の影を作ってしまい、さらに景色を薄暗くする。雪解けが始まっていて水滴の音が聞こえる。
買い物に行くだろう女性とすれ違い、ゆっくりと走っている年配の男性とすれ違う。この辺で何度も見かけたことがある人ともすれ違う。昼間からブラブラして何をやっている人なのだろうと思うも、私もそう思われている可能性は大きい。
高架下をしばらく歩くと通れなくなるところがあって、側道へと移動し迂回しなければいけない箇所がある。高架下を外れると突然景色が明るくなる。同時に高架下にはなかった様々な色が飛び込んでくる。空の色も、家の屋根の色も、枯れ木の色も、看板の色も見える。今日は昨夜積もった雪が地面を染めている。
雪の上を最初に歩いた人がいて、その足跡をなぞるように誰から歩いた跡があった。それを見て私がまだ子どもだった頃に親が歩いた足跡の上を歩いたことを思い出した。はみ出さないように慎重に歩いたものだ。またそんなことがあるのだろうか。それとももうないのか。

プロフィール
せきしろ
1970年、北海道生まれ。A型。北海道北見北斗高校卒。作家、俳人。主な著書に『去年ルノアールで』『海辺の週刊大衆』『1990年、何もないと思っていた私にハガキがあった』『たとえる技術』『その落とし物は誰かの形見かもしれない』など。また又吉直樹との共著に『カキフライが無いなら来なかった』『まさかジープで来るとは』『蕎麦湯が来ない』などがある。
公式サイト:https://www.sekishiro.net/
Twitter:https://twitter.com/sekishiro
<尾崎放哉 関連書籍>

『句集(放哉文庫)』

『随筆・書簡(放哉文庫)』

『放哉評伝(放哉文庫)』