南條 竹則
第21回前編  吾輩の猫話──その三、猫の御難
『吾輩は猫である』には、気をつけてみると、主人公の「吾輩」にとって危険な飲食が三つも出て来る。
 一つ、雑煮。
 一つ、ビール。
 一つ、猫鍋。
 この小説の初めの方で、「吾輩」は新年の雑煮をちょっと食べてみたくなり、台所へ行って苦沙弥先生の食い残しを見つける。
 今朝見た通りの餅が、今朝見た通りの色で椀の底に膠着こうちゃくしている。白状するが餅というものは今まで一返いっぺんも口に入れた事がない。見るとうまそうにもあるし、又少しは気味きびがわるくもある。前足で上にかかっている菜っ葉を搔き寄せる。爪を見ると餅の上皮が引き掛ってねばねばする。嗅いでみると釜の底の飯を御櫃おはちへ移す時の様なにおいがする。(新潮文庫版37頁)
 食おうかやめようかと迷った末、ついに手を出してひどい目に遭う。餅が顔にひっついて離れなくなり、「あら猫が御雑煮を食べておどりを踊っている」という恥ずかしい事態に立ち至るのだ。
 餅では恥を搔いただけだが、ビールは命奪いのちとりになった。
 物語の最後で、「吾輩」は気がくさくさしてきたので、人間たちの真似をして景気をつけようと思い、コップに残ったビールをぴちゃぴちゃ舐めてみる。猫の舌にビールは不味まずかったが、良薬口に苦しとも言うから辛抱して舐めていると、酔っ払って水桶に落ちて死ぬのだ。

 もう一つの猫鍋は実際には出て来ない、話の上だけのものだが、「吾輩」を戦慄させる。
 苦沙弥家の客の中で一人異彩を放つ実業家の多々良三平が、この家に泥棒が入ったという話を聞いて、おかみさんにこんなことを言うのだ。

「(前略)この猫が犬ならよかったに──惜しい事をしたなあ。奥さん犬のふとか奴を是非一丁飼いなさい。──猫は駄目ですばい、飯を食うばかりで──ちっとは鼠でも捕りますか」
「一匹もとった事はありません。本当に横着な図々図々ずうずうしい猫ですよ」
「いやそりゃ、どうもこうもならん。早々そうそう棄てなさい。私が貰って行って煮て食おうかしらん」
「あら、多々良さんは猫を食べるの」
「食いました。猫はうもう御座ります」
「随分豪傑ね」
 下等な書生のうちには猫を食う様な野蛮人があるよしはかねて伝聞したが、吾輩が平生眷顧けんこかたじけのうする多々良君その人もまたこの同類ならんとは今が今まで夢にも知らなかった。(201頁)
 多々良君は苦沙弥先生にも同じことを繰り返す。
「然し一番愚なのはこの猫ですばい。ほんにまあ、どう云う了見じゃろう。鼠は捕らず泥棒が来ても知らん顔をしておる。──先生この猫を私にくんなさらんか。こうして置いたっちゃ何の役にも立ちませんばい」
「やっても好い。何にするんだ」
「煮て喰べます」
 主人は猛烈なるこの一言いちごんを聞いて、うふと気味の悪い胃弱性のわらいもらしたが、別段の返事もしないので、多々良君も是非食いたいとも云わなかったのは吾輩に取って望外の幸福である。(202-3頁)
「吾輩」はこの恐ろしいやりとりを聞いて己の地位を危ぶみ、鼠をとろうと決意するのだった。
 血気盛んな若者が猫だの犬だのを殺して食べる話は、今の若い人には想像もつかないかも知れないが、そう古くない以前まであったことだ。「この書生というのは時々我々を捕えて煮て食うという話である。」と「吾輩」も小説の冒頭に語っているが、他の作家の作品にも出て来る。
 たとえば、泉鏡花の「日本橋」にこうある──
 いかもの食の大腕白おほわんぱくかねて御殿山の梟を生捕いけどつて、雑巾にくるんで、暖爐にくべて丸蒸を試みてから名が響く、猫を刻んでおしやます鍋、モルモツトの附焼つけやき、聊か苦いのは、試験用の蛙の油揚だと云ふ、古今の豪傑(後略) (岩波文庫 151頁)
 上の「豪傑」は大学の「外科の俊才」だが、ここにいう「おしやます鍋」(※新仮名にすると「おしゃます鍋」だろう)が猫鍋の別名である。「猫じゃ猫じゃとおしゃます(おっしゃいます)が」という唄の文句から来ているのだ。
 漱石は果たしてその実態を知っていたのだろうか?
 一般の調理法というものがもしあったとすれば、それはどんなものだったのだろう? 「吾輩なども或は今のうちに多々良君の鍋の中で玉葱と共に成仏する方が得策かも知れん」(同202頁)という一節が、わたしには気になる。「猫を刻んで」という鏡花の言葉と考え合わせると、牛丼の飯の上にのっているようなものが思い浮かぶが、果たして真相や如何に?


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この記事を書いた人
文/南條 竹則(なんじょう・たけのり)
1958年生まれ。東京大学大学院英語英文学修士課程修了。作家、翻訳家。
『酒仙』で日本ファンタジーノベル大賞優秀賞を受賞。以後、幻想小説、温泉、食文化への関心が深く、著書も多い。主な著書に、小説『魔法探偵』、編訳書『英国怪談珠玉集』など多数。

絵/橋本 金夢(はしもと・きんむ)