【第68回】


ここが「針原」か!
 今日も今日とて、録画しておいたテレビ神奈川『新・鉄道ひとり旅 福井鉄道編』(出演・吉川正洋)を視聴する。2016年度放送分の再放送で、福井駅の駅頭から撮影が始まる。精巧かつ巨大な恐竜のモニュメントが吉川を出迎える。私が福井へ行ったのはもう10年も前か。駅前の「古書好文堂」を訪れるのがメインの目的で、オプションとして路面電車電停「田原町」も見たかった。駅前は再開発中だったが、『鉄道ひとり旅』を見ると開発を終え、すっかりきれいになっている。
 吉川は駅前西口広場へ移設された停車場からトラムに乗り込む。新型車両のトラムには「FUKURAM(フクラム)」の愛称が刻まれている。「福井」と「トラム」の合成語で、おそらく「(夢が)膨らむ」を掛けていると吉川。このトラムが、そのまま「えちぜん鉄道三国芦原線」へ乗り入れるようになった。途中「田原町」電停も、乗り入れのために改装されていた。トラムがそのまま別路線へ乗り入れるのはこの福井鉄道と三国芦原線だけだという。相変わらず勉強になる。
 吉川は「鷲塚針原」駅で下車。ここで「アッ!」と声が出たのは私の方。そうか、ここが「針原(はりばら)」か、と驚いたのである。というのは、敬愛する詩人(現代詩作家、と名乗る)荒川洋治の詩集に『針原』(思潮社・1982年)があるからだ。荒川は福井県三国の出身。「鷲塚針原」は、三国へ向かう途中、いつも目にしていた駅名ではなかったか。
 あわてて『針原』を開く。本当に久しぶり。同著は書下ろし詩集であるが、挟み込みの栞「七昼夜のスコール 『針原』制作日誌」を読むと、ちゃんと「高校時代に三国から福井市までおんぼろ私鉄で通学した。その途中に『鷲津針原』という駅があった。いちどもおりたことはない。越前平野に点じられた小駅である」と書かれているではないか。うかつだったなあ。しかし「『針原』には行ったことがない」と言う。
 荒川は市内「藤島高校」に通学する高校生で、下車する最寄りの電停が「田原町」であった。大ファンで神様のように崇めていた私は、そのために「田原町」電停を見て、藤島高校も拝んできた。「ここが荒川さんの通った……」と感激したのである。かわいいところがあるじゃないの。ちなみに『サラダ記念日』俵万智も同校卒業生で、姓名と同音の「たわらまち」電停を使っていた、とは有名な話。
 新しい書下ろし詩集に降りたことのない地の「針原」を選んだのは、語感もあろうが、重要な意味を秘めていた。この詩集を批評する、というような大それたことはできません。ただ、「針原」の意味を知るために読む。巻頭にタイトルとなった詩がある。その書き出し部分。
「二万一千人の死傷者を出した/福井大地震は/一九四八年六月二十八日のことである/私が生まれたのは/一九四九年四月十八日/つまり/震えが/とまってから/父と母の若いからだは/向き合ったもようである」
 福井市を襲った都市直下型「福井地震」はM7・1の大震災となり、死者約3800人を数えた。このため戦災の復興時にあった福井市街は、ふたたび灰燼と化した。「針原」のある坂井市はその震源。その「震え」のなか受胎し、翌年、この世に生み出されたことを強い機縁とし、詩集『針原』は書かれた。自分のルーツと故郷の歴史に楔を打ち込む仕事となったのである。
 荒川と言えば、一躍その名を知らしめた「口語の時代はさむい」のフレーズを含む「見附のみどりに」(『水駅』)のように、私などは都市型の抒情詩の名手と受け取ってきた。「いまわたしは、埼玉銀行新宿支店の白金はっきんのひかりをついてあるいている」という固有名詞を含む大胆な詩行にしびれたのである。「広尾の広尾/うずくのは客車の折り目/雨である、ある、ある日/わたしはおとろえをかくし、会いに行く」(「広尾の広尾」/『あたらしいぞわたしは』)なども、関西人である私が東京を夢見る一助となったのである。
 もちろん一方で、第1詩集『娼婦論』より、キルギス、ソフィア、タシュケント、ウイグル自治区など、海外の地名に喚起された詩行も積み重ねていた。しかし、故郷の福井とこれほど真正面に向き合った詩作は『針原』までなかったように思う。その震源こそ「福井地震」であった。誕生日から逆算して、自分の生が地震後に灯った。珍しく著者が自伝的事実から創作の芽を得ている。そこに詩集『針原』のアクチュアルさを私は見るのだ(あ、批評めいたことを書いてしまった。すいません)。
「針原」は最後、こう結ばれる。
「いまだ固まらぬ大地で/二つの性は息をとめ/私は一つきりの体で生み落とされている/ここからまた裏返り/不動/不微動の原/針原をとおって/震える血を運ばねばならない/不微動の原/針原」
 荒川ファンとしては、いつか近いうちに福井鉄道「鷲塚針原」駅に降り立たねばならぬ。同駅舎は『新・鉄道ひとり旅』でも紹介されていたが、古い木造駅舎がそのまま保存され、登録有形文化財に指定されている。


古本が売れた時代
 顔を突き合わすと「本は売れません」と、作家も新刊書店員も古書店主もぼやくのが、もう長らくの常態となっている。それでも、私の知るかぎり、30代ぐらいで古書店をオープンさせる若手が続々と出てきている。「売れない」とあきらめていては何も始まらない。そんな場合でも、何かしら売り方はあるのかもしれない。
 そんな「ぼやき」を前に、鮮やかに速やかに大量に古本を売りさばいた時代があった。『日本古書通信』2021年10月号掲載の「札幌・一古書店主の歩み 弘南堂書店高木庄治氏聞き書き」の第3回目で、高木氏がまだ東京・神田の「八木書店」で修業していた時代のことを語っている。ちなみに、私は札幌「弘南堂書店」を訪れた時、帳場にいた高木氏と会話している。
 高木氏が東京にいたのは昭和27年4月から翌年3月の1年間。古本がよく売れた、というのはその時代のことである。戦前の本がよく売れたという。敗戦後、資材不足でどの本も紙の質が悪い。戦前に出た本を再販するのにも紙質の悪い用紙に印刷される。そこで「内容も同じだから戦前の紙の良い本がよく売れるんです」と言う。経験者は語る、というわけで、なるほどと納得させられるのだ。
「店売り全盛時代」という小見出しを挟んで「東京の神田では波木井という書店がある」と語りだされるが、この話がすごい。「一日五十万円、売れる日は百万円からにもなる」というのだ。昭和27~28年当時の額である(と思うよ)。昭和27年の公務員初任給が7650円。ちょっと信じられない売り上げだ。
「波木井」は「はきい」と読むのであろうか。青木正美『古本屋群雄伝』(ちくま文庫)に、この店について書かれた個所があった。参考のために、どんな店だったかを引いておく。
「水道橋の駅を降り、神保町方面へ百メートルくらい歩いた右側に、その波木井書店はあった。私は昼下りなのに煌々と電灯に明るい店の前に立ち、間口六間、奥行は十間もある大きな古本屋を驚異の眼で眺めていた。店内はゆったりと四本もの通路を取り、書棚は学術書から雑誌にいたるまでよく分類され、一々にハッキリと正札が見える本で埋まり、数十人の客で一杯だった」
 その驚異的な経営法についても書かれているが、ここでは割愛。同著によれば、波木井書店は昭和37年に廃業したという。理由は子ども(後継者)がいないことと、病気のためだったようだ。
ふたたび高木氏の証言。同じ神保町の「一誠堂書店」でさえ「一日せいぜい七万か十万しか売れない」と高木氏は言うが、これだって今からすれば大変な金額だ。「波木井」は破格にしても、戦後まもなくの「店売り全盛時代」には、とにかくどの店も古本がよく売れたのである。
「要するに食糧と同じで本がないんですよ。知識を要求しても、生産がまだ間に合わないから。それで南陽堂は、それまで日に千五百円か二千円だったものが三千円売れ出し、五千円になり、八千円、一万円と、わーっと加速を付けて売り上げが伸びましたね」。
 まるで、かぼちゃの馬車に乗った貧しい少女が一夜にして王子の妃となるシンデレラ物語みたいで、ほとんど童話の世界である。ただ、溜息をつくばかり。

(写真とイラストは全て筆者撮影、作)

『ドク・ホリディが暗誦するハムレット オカタケのお気軽ライフ』(春陽堂書店)岡崎武志・著
書評家・古本ライターの岡崎武志さん新作エッセイ! 古本屋めぐりや散歩、古い映画の鑑賞、ライターの仕事……さまざまな出来事を通じて感じた書評家・古本ライターのオカタケさんの日々がエッセイになりました。

この記事を書いた人
岡崎 武志(おかざき・たけし)
1957年、大阪生まれ。書評家・古本ライター。立命館大学卒業後、高校の国語講師を経て上京。出版社勤務の後、フリーライターとなる。書評を中心に各紙誌に執筆。「文庫王」「均一小僧」「神保町系ライター」などの異名でも知られ著書多数。Blog「はてなダイアリー」の「オカタケの日記」はほぼ毎日更新中。