南條 竹則
第22回後編 鯛の目玉谷崎潤一郎といえば、明治以降の文人のうちでも有数の美食家といえるだろう。
美食家にも色々なタイプがあるが、彼の場合は、その文章から濃厚なもの、ドロドロしたものというイメージが強く心に残る。前回取り上げた熟柿にしてもそうだ。たとえば、ピータンなども谷崎潤一郎の手にかかると、こんな風に形容される(引用は「魔術師」という短篇から)──
けれども、支那料理の皮蛋の旨さを解する人は、暗緑色に腐り壊れた鶩の卵の、胸をむかむかさせるやうな異様な匂を掘り返しつつ、中に含まれた芳鬱な渥味に舌を鳴らすと云ふ事です。(『谷崎潤一郎全集』第四巻 中央公論新社226頁)
表現の上だけではなく、現実の味覚に関しても彼は濃厚派だったらしい。『文人悪食』の嵐山光三郎氏によれば、「谷崎の好物は、中国料理や牛肉煮込み、天ぷら、鰻といったこってりとした脂っこいものであったことは、谷崎の友人の多くが証言している。」(『文人悪食』新潮文庫253頁)そういう証言の一つを『鏡花全集』の中に見つけたから、ちょっと御紹介しよう。
その逸話は「玉造日記」という大正十三年に書かれた紀行文に載っている。
鏡花は出雲の玉造温泉へ行き、その道中記をしたためた。ちょうどこの年に雑誌「苦楽」を発行した大阪のプラトン社がスポンサーだったらしい。
「日記」は出発前からの細々したことを綴っていて、至る処に新たな見聞と過去の思い出が交錯する。そんな調子で東海道線に乗り、沼津、米原、京都を経て大阪へ。
大阪に着いた鏡花はここに四日間滞在し、小山内薫やプラトン社の中山社長などに会ってもてなされるが、最後の日、神戸の岡本へ出向いて谷崎潤一郎の家を訪ねた。
二人は久闊を叙したあと、大阪南地へ行って「露の家」という料理屋に上がる。
同席した面々はほかに小村雪岱、井阪(仮名)という人物──これは鏡花が水上瀧太郎に紹介された芸者の旦那だ──それに「可」さんと呼ばれる水上瀧太郎の知人もいる。
今夜の馳走は、井阪さんが、私のために、──春は些と違ふかも知れない、──此の豆腐ずきな處へ、焼いて煮ると云ふ安心此の上もない鯛の焼肉羹を誂へた。また申訳をするやうだが、化ものが人間を食ふにさへ頭から鹽をつけてもりもりぢや、ももんがあ……と云々。──われら式が魚を焼いて煮るに不思議はあるまい、……は可いとして、ほか連は仲居はんのもり附に、おとなしく箸をつけたのだが、谷崎さんは、はじめから、「おい、目玉だ。」「へい。」「目玉を入れないか、おかはりだ。」岡本の住人は、よく自分でも牛飲馬食を口にする。が敢て鯛食と称えたい。然も、人も許した美食家だから、肉羹のお職ばかりを狙ふので、台所からは、近所のうまいもの屋へ追つぎの使ひが立つた様子。そのうちに、小村さん、可さんなどが「箸をつけませんから如何で、」「結構。」の、勢猛に退治たから、鯛の目玉は泡沫に成つて鍋に消えた。ぐらぐら煮えるにもかかはらず。(『鏡花全集』巻二十七 660頁)
さあ、目玉はなくなった。「此家の娘はん」も困っている。そこで仲居が「旦那はん、魚鎌は何うどす。」と言ったが、谷崎が答えるには──「魚鎌なんかいらないよ。そのくらゐなら、好いみを食はう。……が、もう沢山だ。」
一寸箸を休めながら、
「茶漬にしよう、番茶の熱い奴をくれないか。」
痛快だ。酒とともに、私は谷崎さんの目玉に酔つた。(同660-661頁)
「痛快」と言ってくれるのは鏡花の親切で、随分な我が儘オヤジである。鼈料理屋へ行って鼈の裙だけを食べるようなものだ。しかし、まわりが許してくれるところは谷崎の貫禄だろう。一寸箸を休めながら、
「茶漬にしよう、番茶の熱い奴をくれないか。」
痛快だ。酒とともに、私は谷崎さんの目玉に酔つた。(同660-661頁)
鏡花は翌朝梅田で福知山線に乗った。出雲の国を目指すが、宝塚を過ぎたあたりで文章は終わってしまい、「玉造日記」だというのに玉造温泉の話はちっとも出て来ない。こちらも我が儘といえば我が儘、呑気といえば呑気である。
ちなみに、鏡花が東海道線の食堂車で食べたコース料理に「大僧正焼」というものが出て来る。
「西洋饂飩に赤いソースを掛けた」料理で、トマトソースのスパゲッティーにほかならないが、鏡花はその呼び名に首を傾げる──
大僧正焼は妙だ……と思つた。むかし黄絹幼婦の謎を、十里で解いたのさへ遅いと言ふ──下司の知慧はあとから出る、百里ばかり隔ててから気がついた、赤茄子を掛けるから、緋の法衣の洒落であらう。(同610頁)
「友白髪」といい、「幽霊」や「そろばん」といい、彼が物の名称に興味を持つ人だったことが、これでもわかる。『酒と酒場の博物誌』(春陽堂書店)南條竹則・著
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┃この記事を書いた人
文/南條 竹則(なんじょう・たけのり)
1958年生まれ。東京大学大学院英語英文学修士課程修了。作家、翻訳家。
『酒仙』で日本ファンタジーノベル大賞優秀賞を受賞。以後、幻想小説、温泉、食文化への関心が深く、著書も多い。主な著書に、小説『魔法探偵』、編訳書『英国怪談珠玉集』など多数。
絵/橋本 金夢(はしもと・きんむ)
文/南條 竹則(なんじょう・たけのり)
1958年生まれ。東京大学大学院英語英文学修士課程修了。作家、翻訳家。
『酒仙』で日本ファンタジーノベル大賞優秀賞を受賞。以後、幻想小説、温泉、食文化への関心が深く、著書も多い。主な著書に、小説『魔法探偵』、編訳書『英国怪談珠玉集』など多数。
絵/橋本 金夢(はしもと・きんむ)