第24回 芥川龍之介『春服』ルビのおかげで確かな用例を発見

清泉女子大学教授 今野真二
 今回は芥川龍之介『春服』を採りあげることにしよう。【図1】は表紙、【図2】は奥付で、大正12(1923)年5月18日に初版が出版されている。筆者の所持しているこの本は、同年5月23日に出版された第4版であるが、コンディションがあまりよくない。装幀は芥川の親友で洋画家の小穴おあな隆一が担当している。表紙の上部左側に「春」、下部左側に「服」とある。

【図1】

【図2】

【図3】は口絵のように掲げられた写真であるが、これについては後記において述べられているので、後記を示しておきたい。

【図3】


「春服」の後に。
「春服」には例の通り、「夜来の花」以後の短篇を集めた。但し「老いたる素戔嗚尊」は「夜来の花」以前の作品である。
 一二の例外を除きさへすれば、「春服」に収めた作品は二十代に成つたもののみである。だから「春服」と名づけることにした。
 巻首に掲げた作者の写真は明治二十九年十一月、袴着の祝ひに写したものである。これも深意のある訳ではない。唯「春服」の成るに至つた年少時代を紀念する為に、筐底の一枚を選んだのである。
 装幀もやはり一游亭小穴隆一氏の筆である。小穴氏は今春病の為に、丁度「春服」の校正中、一脚を切断することになつた。作者は装幀のみならず、平生小穴氏に負ふところの甚多いものである。今この文を草するに当り、愴然の感を禁じ得ない。
 大正十二年二月九日夜
     芥川龍之介記
 この言を信じるならば、写真は明治25(1892)年生まれの芥川龍之介が4歳の時の写真ということになる。
「だから「春服」と名づけることにした」は少し説明が必要かもしれない。『論語』の先進篇第26章に春の日に、子路、曽点、冉有、公西華が孔子の質問に答える場面がある。詳しくは『論語』にあたっていただきたいが、曽点が、春の終りに春服を着て、若者5、6人、子供6、7人を連れて川のほとりに出かけて楽しく過ごせれば満足です、というようなことを言うと、孔子がそれに同調する場面であるが、ここに「春服」が使われている。つまり、「春服」は古典中国語、由緒正しい漢語ということになる。当然発音は「シュンプク」とみるのが自然だ。芥川は当然『論語』のこのくだりを知っていて、そうしたことも考え併せながら「春服」を書名にしたと思われる。

【図4】

 さて、【図4】は76ページ、77ページで「お富の貞操」の一節である。図でわかるように、この本は漢数字を除き漢字には振仮名が施されている。76ページの9行目には「重苦おもぐるしいおとひろはじめた。」とあり、「重苦しい」には「おもぐる(しい)」と振仮名が施されている。『日本国語大辞典』は「おもくるしい」を見出しにしている。

 おもくるしい【重苦】〔形口〕〓おもくる〓し〔形シク〕(「おもぐるしい」とも)押えつけられるようで苦しい。陰うつである。はればれしない。また、重々しく堅苦しい。軽快でない。おもくろしい。*志都の岩屋講本〔1811〕上「其れを俗の人情ではとかく年寄って重くるしう見える医を信仰するが」*内地雑居未来之夢〔1886〕〈坪内逍遙〉九「段々に眠気ざして、瞼(まぶた)が重(オモ)くるしうなりたるに因るなり」*正直者〔1903〕〈国木田独歩〉「天稟(うまれつき)は争はれぬもので、重苦(オモクル)しい性質は言葉の弾力や、理想の槓杆(こうかん)では容易に動きませんでした」*吾輩は猫である〔1905~06〕〈夏目漱石〉二「丁度夢でうなされる時の様な重くるしい感じで」
 さすが随一の大型国語辞書。「「おもぐるしい」とも」とちゃんと記されている。そう記しているのだから、示している使用例の中に「オモグルシイ」が含まれているのだろうと思ったが、残念ながら、確実に「オモグルシイ」であることがわかる使用例はあげられていない。となると、先に引いた例は、「オモグルシイ」の確実な例ということになる。
「誤植の可能性はないのか?」と思われるかたもいるだろう。『春服』に収められている「神神の微笑」に、「が、かなしみはえないばかりか、まへよりも一層そうかれむねへ、重苦おもぐるしい空気くうきひろした。」(120ページ)という一文があり、この「重苦しい」にも「おもぐる(しい)」と振仮名が施されているので、芥川龍之介が(と、ひとまず言っておくが)「オモグルシイ」という語形を使っていたことはほぼたしかであろう。「神神の微笑」といえば、以前に、芥川の自筆原稿の揃ったものが売りに出されているのを見た記憶がある。夢でなければ、たしか600万円ぐらいであった。あれはどこかの図書館などに所蔵されたのだろうか。あるいは夢だったのか。
 さて、77ページ側にもちょっとおもしろい例がある。5行目の末尾から6行目にかけて「しつきりなし」とある。いうまでもなく、「ヒッキリナシ」の「ヒ」が「シ」になった語形である。本書の「老いたる素戔嗚尊」でも「おさな須世理姫すせりひめが、しつきりなくなげかなしむ」(280ページ)と使っているし、他の作品中にも見つけられた。丁寧に本を読み進めるといろいろなことに気づく。
 参考:連載『芥川龍之介と春陽堂』
(※レトロスペクティブ…回顧・振り返り)

『ことばのみがきかた 短詩に学ぶ日本語入門』(春陽堂ライブラリー3)今野真二・著
[短いことばで、「伝えたいこと」は表現できる]
曖昧な「ふわふわ言葉」では、相手に正確な情報を伝えることはできない。「ことがら」・「感情」という「情報」を伝えるために、言葉を整え、思考を整える術を学ぶ。

この記事を書いた人
今野 真二(こんの・しんじ)
1958年、神奈川県生まれ。清泉女子大学教授。
著書に『仮名表記論攷』(清文堂出版、第30回金田一京助博士記念賞受賞)、『振仮名の歴史』(岩波現代文庫)、『図説 日本の文字』(河出書房新社)、『『日本国語大辞典』をよむ』(三省堂)、『教科書では教えてくれない ゆかいな日本語』(河出文庫)、『日日是日本語 日本語学者の日本語日記』(岩波書店)、『『広辞苑』をよむ』(岩波新書)など。