《恋する日々の記録》 つばさ―翼―
 この「つばさ―翼―」という歌は1996年のアルバム『晴れ上がる空のように』の中の一曲。1995年、歌手生活30周年の全国ツアーの途中、羽田から函館へ飛ぶ全日空機でハイジャックに遭い、16時間閉じ込められて無事解放された事件のあった翌年、もう一度生まれ直したような気分になり、ガツンと取り組んだアルバムでした。

1995年 6月22日ハイジャック翌日の会見

 なぜか空を飛ぶイメージが取り付いていて、この「つばさ―翼―」や「蒼空」という歌が生まれ、「そこには風が吹いていた」や「Never Give Up Tomorrow」など私にとって大事な歌が収録されている全曲書き下ろしのアルバム。
 このアルバムのスタートに作ったのが「愛の日々へのララバイ」というラブソングでした。
 そこには、無垢むくな恋人同士の、夢のような愛の風景を描きました。物語はふたりの秘密基地のような部屋から始まります。
急な坂を登りつめたその奥の
石段を登ったらあなたの部屋
 この地形、このどん詰まりのような恋人の家。
 これは私の実話ではありません!
(私にだって、フィクションの恋物語、作らせて!笑)
 でも、とっても気に入っています。
 その部屋からは、世の中が一望できて、窓の外の屋根の上に寝っ転がると、もうそこには空しかない!
 多分、家賃の安そうなその小さな部屋で、ただ未来を探し、ふたりだけの好きな未来図を描こうとしている、そんな恋人同士。
明日じゃなく 夢じゃなく 
まして永遠の 約束じゃなく
もっと違う 確かな愛を 
あの日あの場所で 見つけたのさ
「もっと違う確かな愛」って?
 何が「もっと違う」なのか、何が「確かな」なのか?
 そんなこと追い詰めても、なかなか答えはないけれど、でもそこで問い続けてるふたりがいることが答えなんだ、と思います。全世界がたち塞がっても求め続ける、その見捨てられた覚悟みたいなもの。
 この無鉄砲な恋の旅が、長い歳月を超えてたどり着いた果てのふたり。それが「つばさ―翼―」という歌と言ってもいいかな。
ずっと見つめていた あなたの何もかも
海に沈む時も 空を飛ぶときにも
やわらかな翼で 悲しみを抱きしめ
泣きながら愛して 眠る夜もあった
あなたは気づかない 自分のやさしさに
傷ついて倒れて 打ちのめされるまで
誰のものでもない この無限の時間を
自分だけのものだと 思うのはやめて
 どこかに辿り着こうとして飛び続ける男に到達点はなく、そこに吹き渡る果てしない虚しさを、誰にも埋めることができない。
 それを受け止めようとする女にとって、生きることはどこかに辿り着くことではなく、今を生きること、ここにこうしていること、確かに抱きしめあっていること、それだけなのに…。
 いつも遠くを見て、どこかへ向かおうとする男の背中に、言い知れぬ寂しさを見続けた女。
これは実話です(笑)。

1996年発売『晴れ上がる空のように』

 私の歌についてほとんど感想を述べたことのない夫が、「入院日誌」と書かれたノートに、この「つばさ―翼―」のことを書いていたのを、彼が他界した後に知りました。
今朝は早く4時に目覚める。ベッドの中でCDを聴く。「翼」
という歌はいい。
 たったそれだけの2行に私は泣きました。
 ノートにはほかには「女房来る」とか「女房帰る」とか、書いてあるだけ。そこで歌についての会話は一度もなかったことを思い出します。
 恋人であることと、共に生きること、それがどうしても折り合いがつかなくて、結婚という形に何度かけりをつけようとしたこともあったけれど、こうして病に伏す時が来て、やがてこの世を去る日が来て、そこに命を放り出していってしまう人の、とてつもない大荷物を受け止めた時、初めて「女房」という私になったのです。
 病院の廊下を歩く時、彼の足元の危うさに思わず手を繫いで、なぜだか、それが嬉しくてドキドキした、そんなこともありました。
 この広い空の下で、偶然のように出会い、こうしてたどたどしくも旅路を共にする。
「もっと違う、確かな愛」という不確かな目標に向かって…。
 それはきっと野原に花が咲くのと同じ。それを愛と呼ぶのでしょう。
(写真は筆者提供)

つばさ―翼―
 作詞・作曲:加藤登紀子
ずっと見つめていた あなたの何もかも
海に沈む時も 空を飛ぶときにも
やわらかな翼で 悲しみを抱きしめ
泣きながら愛して 眠る夜もあった
あなたは気づかない 自分のやさしさに
傷ついて倒れて 打ちのめされるまで
誰のものでもない この無限の時間を
自分だけのものだと 思うのはやめて
ときめきの光は はるかな風のよう
傷ついた心に よみがえる太陽
どれほど夢を見て どれほど越えたのか
すこしづつ翼が 重たくなってくるよ
もっと遠いところへ 飛べたかもしれない
遠い夢だけを 見つめていたならば
けれど遠い夢は 心のなかにある
翼の温もりが 感じているはずさ
誰のものでもない 限りないこの空を
孤独なものだと 思うのはやめて
柔らかな翼に 永遠の風を受け
ふりつもる悲しみを 運び去る時まで
誰のものでもない この無限の時間を
自分だけのものだと 思うのはやめて
ときめきの光は はるかな風のよう
傷ついた心に よみがえる太陽
 1996年11月21日発売 アルバム『晴れ上がる空のように』収録

(JASRAC許諾第9023555003Y38029号) 
この記事を書いた人
加藤 登紀子(かとう・ときこ)
1965年、東大在学中に第2回日本アマチュアシャンソンコンクールに優勝し歌手デビュー。「ひとり寝の子守唄」「百万本のバラ」「知床旅情」「琵琶湖周航の歌」などヒット曲がある。N.Y.カーネギーホールで2度のコンサートを成功させたのに続き、92年にパリのラ・シガール劇場でコンサートが認められ、フランス政府より芸術文化勲章「シュバリエ」が贈られた。女優として『居酒屋兆治』(1983年)に出演。宮崎駿監督のアニメ映画『紅の豚』(1992年)では声優としての魅力も発揮。2021年、日本訳詩家協会 会長に就任。
公式ホームページhttp://www.tokiko.com 近著に「哲さんの声が聞こえる」(合同出版)「運命の歌のジグソーパズル」(朝日新聞出版)「自分からの人生」(大和書房)。新譜「花物語」(ユニバーサルミュージック)/YouTube「土の日ライブ」毎月11日配信。