東 直子
 鋭い感性と繊細な表現で人気の歌人・作家・イラストレーターの東直子さんが、心に残る映画やドラマについて、絵と文、そして短歌の形で描きます(月一回更新)。

忘れないで、でも、忘れて
 この映画は、2001年に日本で公開されたときに映画館で観た。それから20年が経ち、細かいストーリーはおぼろになってしまっていたのだが、劇中に流れる様々な歌声は、陰影の深い美しい映像と共に耳の奥にいつまでも消え残っていた。タイトルのように。
『耳に残るは君の歌声』は、この映画のテーマソングのように劇中で何度も歌われるビゼーの『真珠採り』の中の楽曲のタイトルでもある。哀愁を帯びたドラマティックなメロディーは、言葉の意味が正確にわからなくても、のびやかに歌いあげられると、それだけで胸がしめつけられる。
 この歌を冒頭で歌うのは、フィゲレと呼ばれる幼い少女の父親。物語は、1927年のロシアから始まる。歌手でもある父親は娘のために枕辺で歌い、アメリカに旅立つ。出稼ぎに行くのである。死別したのか母親はいないようで、山深い集落にあるその家には、フィゲレと祖母が残される。いつかアメリカに呼び寄せてもらう日を待っていたのだが、ユダヤ人の集落であるその村は迫害を受け、焼き払われてしまう。少女は逃げ延びてイギリスに渡り、赤十字の仲介によってスージーというイギリス風の名前を与えられたあと、里親の夫婦の元で育てられる。その後、歌唱力を生かしてパリに渡り、コーラスガールとして働きながら父のいるアメリカに行くことを夢みている。少女は、父に教えてもらった歌に英語の歌詞をのせて、透明な歌声を人々に披露する。違う歌い手によって届く歌声が胸の中で響き合う。
 家族をなくし、住み処を追われ、国を追われ、名前まで剥奪される。一人の少女が歩む過酷な運命は、不安定な時代の中で生きる場所を模索し続けなくてはならない多くの人々に共通する苦悩であり、現代も続いているアイデンティティーの問題も含んでいる。
 主な舞台となったイギリスとフランスの合作映画で、監督、脚本、そして音楽監修はイギリス人のサリー・ポッターである。成長後のスージー(フィゲレ)をクリスティーナ・リッチが演じ、パリで同居するダンサーの友人ローラをケイト・ブランシェット、スージーが初めて恋心を抱くロマ(ジプシー)の青年チェーザーをジョニー・デップが演じている。それぞれの役者が20年前のみずみずしい輝きをたたえて、憂い多き映画の世界の夜の街で甘美に歌い、疾走する。馬で、自転車で、身体一つで。そしてときに濃密な時を過ごす。
 イタリア出身の歌手ダンテにローラが近づいたことで、ローラとスージーは彼のオペラに出演することになるのだが、クリスティーナ・リッチが髭を生やした兵士役で憮然とした表情で歌をうたうシーンがなんともかわいい。重いエピソードの続く映画のささやかなユーモアシーンである。
 この映画の原題は『The Man Who Cried』。直訳すると「泣く男」といったところか。「cry」には、「叫ぶ」「大声で言う」という意味もあるので、激しく嘆き悲しんで泣く男のイメージが浮かぶ。監督がどういう意図でこの題をつけたのか、考えてしまった。男が泣く場面はいくつか出てくる。出稼ぎに行くフィゲレの父親。スージーをアメリカに送りだすチェイザー。戦争で仕事が失われるダンテ。ままならない人生、背負った運命を嘆いて、彼らは泣く。
 一方、女たちもそれぞれの人生に深い悲しみを覚えている。仲良くなったアパートの管理人の老婦人がユダヤ人であるために連行されたことを知ったスージーは、自分の身にも迫っている危険に震え、どうしたらいいのかと泣く。ロシア出身のローラは、男を手玉に取って計算高く生きているようで、不安をずっと抱えている。しかし二人は、弱々しく泣き続けたりはしない。生き抜くために、若くしなやかな美しい身体で踊り、歌い、意志を伝える。新しい土地を目指して船に乗り込む。『The Man Who Cried』は、彼女達の生きる姿を照射するためのタイトルであるように思う。クリスティーナ・リッチの、冷徹に遠くを見据えるような強いまなざしに打たれる。
 スージーが繰り返し歌う「私を忘れないで、でも、私のたどった運命は忘れて」という歌詞は歌曲の中のものだが、彼女自身の心の声を代弁している。どんな運命の元に生まれても、私は一人の人間としての固有の「私」なのだと。
家を船を過去を焼かれてここに来た 白いかいなを夜へ広げる
(絵・文・短歌 東直子)
耳に残るは君の歌声(2000年)
監督=サリー・ポッター 出演=クリスティーナ・リッチ、ジョニー・デップほか 
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この記事を書いた人
東 直子(ひがし・なおこ)
1963年、広島県生まれ。歌人・作家・イラストレーター。1996年歌壇賞受賞。歌集に『春原さんのリコーダー』『青卵』など。小説に『とりつくしま』『さようなら窓』『階段にパレット』ほか。2016年『いとの森の家』で第31回坪田譲治文学賞受賞。エッセイに『千年ごはん』『愛のうた』など。穂村弘との共著に『短歌遠足帖』、絵本に『わたしのマントはぼうしつき』(絵・町田尚子)などがある。2022年1月8日(土)より、自身の一首「転居先不明の判を見つめつつ春原さんの吹くリコーダー」が原作となった映画『春原さんのうた』がポレポレ東中野ほかで公開中。
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