【第73回】


コロッケそば克服の巻
 関西人が東京へ来て立ち食いそばと出合った時、必ず直面しなければいけない関門がある。そこをなおざりにして、東京の立ち食いそばは語れない。
「コロッケそば」の話である。
 関西人が東京および関東の立ち食いそば店に初めて入り、違和感の第一は汁の黒さで、これは何度も書いてきた。天ぷらそばの「天ぷら」が、かき揚げなのも関西とは違う。関西の立ち食いそばの「天ぷら」は、薄い衣をわらじのように揚げ、中央にしなびたようなエビがのっかっているタイプで、見た目も食べた触感もかなり違う。
 最初はもちろん、関西人の血が100パーセントだから、関東タイプはかなりハードルが高かった。しかし30年を経ると、血が関西と東京のハーフ&ハーフぐらいになり、こちらの天ぷらそばもそれなりにうまいと思うようになってきた。
 それでもずっと30数年、放置したままの問題が「コロッケそば」であった。コロッケも好きだし、そばも好き。好きと好きがダブルになっても、手を出すことがなかったのである。「いやいや、それはないだろう」と手を振り続けてきた。自販機にせよ店内壁のメニュー表にせよ、選択の余地に「コロッケそば」はなかった。
 つまり、「和」と「洋」の衝突で言えば、マグロの刺身にとんかつソースを塗って食べるぐらいの違和感を「コロッケそば」に持っていて、それがぬぐえなかったのである。「別に、かき揚げでもきつねでも、ちくわ天でも乗せるものはいっぱいあるし……」という保守の態度が鉄壁で容易には揺るがない。もともと私の「食」に関する姿勢は「超」保守で、新しいものに挑戦する前衛姿勢がなかったこともある。
 当代の人気噺家である柳家喬太郎に、「時そば」を高座にかける際、定番となった枕があって、それが「コロッケそば」問題であった。喬太郎は「時そば」に入る前、かなり長めの「コロッケそば」についての想いを延々と語る。揚げられたコロッケの気持ちになって、自分の行く末を「パン」「ごはん」と思いきや、「え、うそ! そば」と衝撃を強調する。これはユーチューブでも「喬太郎 コロッケそば」で検索すれば視聴可能なので、ぜひ見ていただきたい。また、東海林さだおは『偉いぞ! 立ち食いそば』(文春文庫)の中で「コロッケそば」を「立ち食いそば界の傑作である」と賞賛している。
 というわけで、私もいつかこれを食せねばならない、と思ってきた。しかし、なかなかふんぎりがつかず、気づいたら上京して30年が過ぎていたのである。喬太郎「コロッケそば」の映像を見て、これはもうやるしかないと心に誓い、1月下旬、JR武蔵野線「新座」駅から野火止用水を歩く際、この時を決行日にした。「新座」駅には改札出てすぐに「めん処 一ぷく」というチェーンの立ち食いそば店がある。カウンターと窓際に椅子席のある店で、券売機は店内入口のすぐ脇にある。満を持して「コロッケ」のボタンを……と思いきや、単体で選ぶのにはまだためらいがあり、丼セットにして衝撃を弱めた。
 そしてついに、「コロッケそば」と相対することになった。まごうことなき茶色の揚げ物である「コロッケ」がそばの上に鎮座している。大げさに書いているが、正直な感想は「まあ、こんなものか」ぐらいである。これをどう食するかという次の段階に入っていかねばならぬ。汁に浸さず、箸で持ち上げてかじりながらそばと口中で合体させるのか。コロッケに「いいかい、行くよ」と言い聞かせながら汁に浸し、融和したあげくに食うのか。箸の先で順にコロッケを崩しながら、そばと混ぜて……なのか。
「まあ、好きに食えばいいんじゃない?」と天の声を聞き、私は最後の手を取った。つまり箸の先で崩しながらの戦法である。それまでスクラムを組んで「コロッケ」隊を死守してきた揚げた衣と、具材の芋、角切りにんじん、たまねぎの小片が解放されて汁に浮き、あるいは力尽きて沈んでいく(ちょっと東海林さだおタッチだなあ)。
 すいません、書きながらバカバカしくなってきたので、これにて締めを。結論は、コロッケとそばは意外に合う、ということだった。味覚としては何の違和感もない。最後に丼の底に沈んだ破片たちをどう処理するか(箸ではすくえない)。私は残してしまった。というわけで、「コロッケそば」初体験はつつがなく終了した。「めん処 一ぷく」さん、ご協力ありがとうございました(いや、何の協力もしてないって)。


小手指でトトロの神社
 1月中旬の冬の晴天日。思い立って、急きょ以前から頭にあった西武線「小手指こてさし」からバスに乗って糀谷、堀之内(早稲田大学人間科学部キャンパスがある)の丘陵地、茶畑を歩く。
 テレビ番組で見たのだったか、ここら一帯が雑木林と丘陵地、そして茶畑が広がる所沢の原風景が現存する場所だと知っていた。所沢市の西側、狭山湖(村山貯水池)の北に位置する郊外である。よそから人がわざわざ観光で訪れるエリアではない。そこいらあたりが、へそ曲がりの私好みなのである。
「小手指」は難読の地名。「こてさし」と読む。ものの本によれば、ヤマトタケルの東征伝説の折、小手指「北野」にある天神社で籠手をかざして先勝祈願をした。そこから「小手指原」の地名がついたという。つまり由緒正しいというか歴史のある土地なのである。国木田独歩も『武蔵野』で、たしか武蔵野の面影が残る地だと書いていた。その後も幾度となく合戦地となった場所で、バスで途中「誓詞橋」というバス停を通過したが、ここは新田義貞が鎌倉幕府を倒す誓いをした場所だと、掘ればいくらでも史跡が出てくる。私はそんなに歴史好きというわけではなく、深くは関わらない。もう少しぼーっとして、見知らぬ場所をうろつきたい。そのつもりで、どうか気を抜いてついてきて下さい。
「小手指」駅南口ロータリーから「小手09」バスに乗車。15分ほど揺られて179号線沿いにある「台」というバス停で下車。少し路地へ踏み込むと、あたりは茶畑と雑木林の丘陵地である。「比良の丘」と呼ばれる茶畑の中を一人ぽつんと歩いていく。すぐ左前方に赤い鳥居が見えて、これが「山之神神社」。本殿はつづら折りの坂道を上ったところにあった。賽銭箱はなし。本殿に近い家屋からラジオかテレビの音が漏れている。
 境内にあった案内板をメモしていると、茶畑の上から赤い防寒着を着て、杖をついた白髪、白いあごひげ(長い)老人が下りてきた。一瞬、幻かと思ったが、向こうから挨拶されて言葉を交わす。「研究者の方ですか」などと問われ「いえいえ、ただ散歩に来ただけです」と答える。このご老人、何をしている人かはわからないが、こうして地元の埼玉をあちこち巡っておられるらしい。「お元気ですね」と言うと、もっと若い頃、高級な自転車で日本一周をしたこともあると答えが返ってきた。
 一緒に丘を下ることになり、坂の下の赤い小さな鳥居を指さして、「これが『となりのトトロ』に出てくる神社ですよ」と教えてくれたので、「ええっ!」と声が出た。所沢一帯に、宮崎駿の呼びかけで森や丘陵地が保護され「トトロの森」と名付けられているとは知っていたが、この「比良の丘」もその一つであった。
「トトロ」という単語が出てくるとは意外性満点の老人とはここで別れ、さらに西側「糀谷」の集落へ入っていく。これまた階段を上った丘の上にある「糀谷八幡神社」にお参り。じつはこれが2022年の初詣であった。あたりは湿地帯。その先、200mほど行けば入間市に入る。神社までの一本道に住宅が迫っていて、いずれも古い農家であろう。せっかくだからと周辺を散策すると「モー」と牛の声がした。牛舎があるのだ。

 声の方に近づいてくと、屋根付きの牛舎が見え、私の姿を認めた黒と白のまだらの牛が何かもらえるかと思ったか、柵から顔を覗かせた。急いでスケッチし帰宅後着色したのが、ここに掲げる絵である。「トトロ」の神社にも感激したが、生きた牛をこうして間近に見るのは、ひょっとしたら人生で初めてかもしれないと思う。思いがけない散歩になった。
 帰ってから改めて調べて分かったのだが、バスで途中通過した「芸術総合高校」バス停近くに「クロスケの家」と名付けられた、これも『となりのトトロ』に登場する「マックロクロスケ」という煤のお化けが出てくる古い日本家屋のモデルがあるとのこと。
 私は「牛との遭遇」後、左卜全の墓があるという金仙寺へも足を延ばしたものの、こちらはどこに墓があるか不明であった。丘陵地で出会った杖の老人はこのまま西へ行けば「さいたま緑の森博物館」があって、親切なガイドがいろいろ教えてくれると言っていた。これも帰宅してから検討すると、同館の案内所まで山之神神社から1キロない。またの楽しみに取っておこう。
(写真とイラストは全て筆者撮影、作)

『ドク・ホリディが暗誦するハムレット オカタケのお気軽ライフ』(春陽堂書店)岡崎武志・著
書評家・古本ライターの岡崎武志さん新作エッセイ! 古本屋めぐりや散歩、古い映画の鑑賞、ライターの仕事……さまざまな出来事を通じて感じた書評家・古本ライターのオカタケさんの日々がエッセイになりました。

この記事を書いた人
岡崎 武志(おかざき・たけし)
1957年、大阪生まれ。書評家・古本ライター。立命館大学卒業後、高校の国語講師を経て上京。出版社勤務の後、フリーライターとなる。書評を中心に各紙誌に執筆。「文庫王」「均一小僧」「神保町系ライター」などの異名でも知られ著書多数。Blog「はてなダイアリー」の「オカタケの日記」はほぼ毎日更新中。