南條 竹則
第24回前編 花食い人──草野心平
 世の中の食いしん坊には自分で厨房に立つ人も少なくないが、怠惰なわたしは食べるだけで、およそ割烹の情熱がない。それでも、本に出て来た料理を作ってみたことが一、二回ある。その一つは團伊玖磨の随筆「パイプのけむり」に出て来る「草野粥」だった。
 これは詩人の草野心平が、「死んだ檀一雄と八丈島に行った時、團家で私がつくった胡麻油を使ってのカユで、それが心平ガユとかクサノガユとかの名誉ある綽名をもらったわけである。」(「花を食べる」58頁)
 草野心平はこれをよく朝食に食べたらしい。製法は、「米を一、上等な胡麻油を一、水を十五」の割合で鍋に入れ、二時間ほどとろ火で煮て、最後に食塩をパラパラふりかけるというものだ。
 わたしがこれをつくってみたのは、中学か高校の時だった。初め鍋に材料を入れた時は、水と油のたとえの通り、両者がくっきりと二層に分かれているが、時間が経って蓋を開けると、渾然一体としてシチューのようになっていた。味も悪くなかった。わたしが使った胡麻油は近所の酒屋で買った安物だったが、良い油を使えばさぞかし美味だったにちがいない。
 食べ物のことを書いた文学者のうちでも、草野心平の味覚の世界は独特の広がりを持っている。それは焼鳥屋や居酒屋を経営したからではなくて、生来の野生児であることと若い頃に中国生活をしたためだろうと思う。
 彼は晩年の文集『口福無限』の序で、天山山脈に発する清冽せいれつな水や、なまで食べた沢蟹や、花々、野草、果物の味を「言わば原食」として語った後に、「けれどもその反対のこみいった料理はもっと無限である」といって、中国のスープを引き合いに出す。ふかひれや海燕の巣、桐州の蛇、西安の苔(けだし髪菜はつさいのことか)──「みんな具そのものは単純だが、それらを深い味にするには並大抵のことではなかったろう。苦心の果ての創造と持続の歴史があった筈。そして人間共通の口福に対する貪欲がなくならない限り、食愛による発明は無限に続くだろう。そして大きく展けるだろう。」(「序」2頁)
 単純と複雑、天然と人工の旨味を嚙み分けた人の言葉である。
 草野心平が愛した「原食」の中で重要な位置を占めるものに、花々がある。
「花肴」という詩を読んでみよう──
 ウチの庭と畑から。
 色んな花花と若い葉つぱ類を採つてくる。
 庭梅にわうめとボケと連翹れんぎょう
 ライラックと二種類のすみれ
 春蘭・満天星・ムラサキヤシホ。
 アケビの花と葉つぱ。
 自称ブルースター。
 ナヅナの白と諸葛菜の薄紫。
 牡丹の若葉とバラの新芽。
 ツツジの五種類の花花。白山吹。
 こごみ・ぜんまい。
 タンポポの花と葉つぱ。
 ハコベ・ホトケノザ・姫林檎の薄くれなゐ
 二種のユキノシタ。
 カヘデ・錦木・ベニカシハのピンクの葉つぱ。
 月桂樹の花の黄色いツブツブ。
 それらをテーブルの上に並べた七つの。
 白い皿皿に盛り。
 左手にはコップの冷や酒。
 南蛮味噌と醬油と蜂蜜と岩塩しほと二杯酢。
 花や葉つぱの夫夫を。
 二本の指でつまみとり。
 自分の勘や好みで夫夫の味の元を用ひ。
 生のまま夫夫の味を味はひ乍ら。
 さうしてはまたコツプ酒。
 さうしてはまたつまみ。
 ああ爽やかな春の夕暮。
 花花よ許せ。
 葉つぱたちよ許せ。(同47-49頁)
 まことに、色と香りの饗宴ではないか。花々が薫る空気のすがすがしさまで伝わって来るような気がする。
 詩人は花をサンドイッチにもした。谷口純との対談(「素人の庖丁談義」)によると──
 アヤメを食べたのは声帯をこわして、まだだれも避暑に来ていない蓼科の山荘で独り暮しをしたときでした。避暑客のいない高原にはレンゲツツジが黄色い炎をあげていてね。散歩の帰りにそのレンゲツツジやスズランやアヤメ、小梨の白い花などを少しばかり摘んで帰って、さて食事にしようと、私はパンにバターとマーマレードをぬって、ふと、思いついて採って来た紫色のアヤメをはさんで食べてみたわけ。バターに紫のアヤメがまことに鮮やかだったし、その歯切れの音がなんともいえず清潔だった。名づけてアヤメサンド。(同184頁)
 随筆「食べた花々」によると──
 私がよくやるのは黒パンやフランスパンの薄切りにバターをぬり、その上に季節季節の花をのっけて食べる。(中略)
 今時の花だとハギやクズの花やヤマジノホトトギスといったたぐいがいい。紫色のホトトギスはどうも食う気がしない。金木犀をパラッとちらすのもまたいい。(同164-65頁)
 草野心平は金木犀の香りを好んだようで、例の草野粥についても、こう言っている──「油の匂いのなくなったそのカユには金木犀きんもくせいの生きてる花を散らしてチリレンゲですくって食べるのも乙である。」(「花を食べる」58頁)
*文中の引用はすべて草野心平『口福無限』講談社文芸文庫より。


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この記事を書いた人
文/南條 竹則(なんじょう・たけのり)
1958年生まれ。東京大学大学院英語英文学修士課程修了。作家、翻訳家。
『酒仙』で日本ファンタジーノベル大賞優秀賞を受賞。以後、幻想小説、温泉、食文化への関心が深く、著書も多い。主な著書に、小説『魔法探偵』、編訳書『英国怪談珠玉集』など多数。

絵/橋本 金夢(はしもと・きんむ)