《今を生きるために》 今どこにいますか
 2011年3月11日、私は東京の事務所でアルバム制作の打ち合わせをしていました。午後2時46分、東日本大震災の大きな揺れは、渋谷のマンション10階の部屋でも徐々に激しくなり、最初はみんなに「この程度はよくあるのよ、大丈夫」と言っていたのですが、本箱のCDや本が円盤のように部屋の真ん中のテーブルに飛んでくるようになり、私はまずギターをケースにしまい、「ここを出よう!」とみんなに言って、階段をかけ降りました。
 階下に降りた時、2回目の揺れがあり、防災無線で、1回目の地震が「5強」、2回目が「5弱」との発表がありました。
 慌てて上着も着ないで事務所を出てきたので、あまりの寒さに駐車場にあった会社の車にスタッフみんなで乗り込み、ビルの倒壊の恐れも考えて、広い道路へ出たほうがいい、と明治公園あたりまで行って待機したのでした。
 その頃には明治通りは車がぎっしり、歩道はどこかへ向かおうとする人でいっぱいでした。
 車に乗り込んで初めてTwitterで津波警報を知り、なぜか大阪からのメールで翌日の都内で開催予定のコンサートの延期と、その次の日の富山のコンサートの予定通りの開催の知らせを受けたのでした。
 12日午後3時36分、福島第一原発1号機で水素爆発が起こり、14日午前11時1分、3号機も爆発、4号機でも15日午前6時14分に爆発が起こりました。私は千葉県鴨川の娘たちと電話で話し、「できるだけ早く飛行機で沖縄へ避難しよう」と言ったのですが、その時次女の八恵はこう言ったのです。
「もしそうしたいのならママひとりで行って。私たちには守らなきゃいけない畑もあるし、家族も大勢だから、すぐには動けないの」
「私ひとりで避難したって、何になるのよ」と思わず叫んでしまいましたが、沖縄に住んでいた三女も電話でこう言ったのです。
「ママにはそっちにいて、やれる限りのことをやってほしい」と。
 その一言には、グッとくるものがあって、腹を括りました。
 原発のさらなる爆発の危険も否定できなかったし、余震は遠く長野県、静岡県にまで波及していたので、何があってもおかしくはない、という判断の中で、事務所を16日から1週間休業にして、みんなに身の安全を守る選択をそれぞれにするように指示。私は同じマンションの11階に住んでいる母を京都の兄の家に預けることにしたのです。
 16日、やっと夜の新幹線のチケットを確保し、大きなスーツケースとギターと、もうすぐ96歳になる母の手を引いて、京都駅のプラットホームに降りた時、迎えてくれた兄が、何とも言えない顔で笑いながら、
「なんや、引き揚げの時のこと思い出してしもた」
と言ったのです。
 夜汽車で母とふたりきりの時間を過ごした私の思いも、同じでした。
 引き揚げの時、「歩かないと死ぬことになるのよ」と2歳の私の手を引いていた母と、今も手を繋いでいる、と。
 私たち、戦争を知っている世代は、きっと誰もが、思い出していたでしょう。命の危険をくぐり抜けたあの時を。
「私にできること」の言葉に搔き立てられながら、何ができるのか、途方に暮れて京都のホテルにポツンといた17日の夜、テレビの画面から送られてくる被災地の様子を食い入るように見ながら、思わず溢れる言葉を書き留めました。
今どこにいますか 寒くはないですか
お腹はすいてませんか 眠る場所はありますか
誰かと手をつないでますか 暖かな火はありますか
誰かを胸に抱いてますか 青い空を見上げてますか
 画面の中では、雪の降りしきる海辺の瓦礫がれきの中を、行方不明になっている肉親を探す人の、悲痛な姿がありました。震災からもうすぐ1週間、どうしても、どうしても探してしまう彼らの苦しさに、何を言えばいいのか。届かないけれど、私は続けました。
今日一日を生きましたね  あしたのために眠りましょう
かなしみはあなたの胸で 大きな愛に変わるでしょう
 翌日、大阪からUstreamで発信することになり、私はギターでこの歌「今どこにいますか」を歌いました。
 あれから11年の歳月が過ぎた今も、あの日々を忘れることはありません。
「今どこにいますか」をギターで歌ってネット配信したり、被災地に行ってきたカメラマンから、現地の様子を聞いたり、支援物資を彼らに託したり、できることを模索しましたが、4月13日、やっと花巻空港へ飛び、遠野から釜石、そこから山田町、大槌町、陸前高田など、被害の大きかった町を訪ねることができました。

2011年4月14日 岩手県山田町にて

 ひとつの街が完全に壊滅している、その被災の凄まじさには、呆然とするしかありませんが、避難所の人たちは大きな家族になったような熱い心で支え合って、そこにいました。
 精一杯の笑顔が、思わず抱き合った瞬間に崩れ、「今だけ泣かせて」と胸の中で泣いた人のこと、「この子は家族をみんな亡くしたのよ」と寄り添う人たちの中で、何も言わずだまったままだった少女のこと、何が起こったのか、考えもせず転げ回っていた小さな子供たち…。
 これからも起こりうる災害のためにも、この時のことを語り継ぐ言葉が必要だと思います。
 歴史はいつも、無数の小さな出来事の中にあります。時がたっても、その小さな出来事ひとつひとつを、大きな言葉に飲み込まれずに語り続けてほしいと、願っています。
(写真は筆者提供)

今どこにいますか
 作詞・作曲:加藤登紀子
今どこにいますか
寒くはないですか
お腹はすいてませんか
眠る場所はありますか
誰かと手をつないでますか
暖かな火はありますか
誰かを胸に抱いてますか
青い空を見上げてますか
大きな悲しみは嵐のように
突然に訪れるけど
夢じゃない 何もかも
ほんとうの ことだから
今日一日を生きましたね
あしたのために眠りましょう
かなしみはあなたの胸で
大きな愛に変わるでしょう
出来るだけのことをして それでも足りなくて
悔しさに泣けてくる
どうしようもない ことばかり
地団駄を 踏みながら
泣きたければ泣けばいい
大きな声で歌えばいい
みんなで笑い合えばいい
子供のようにころげまわろう
あしたは来る かならず来る
太陽はまわってる
出来ることをひとつずつ
またひとつ 積み上げて
泣きたければ泣けばいい
大きな声で歌えばいい
みんなで笑い合えばいい
子供のようにころげまわろう
 2011年9月28日発売 アルバム『命結-ぬちゆい』収録

(JASRAC許諾第9023555003Y38029号) 


この記事を書いた人
加藤 登紀子(かとう・ときこ)
1965年、東大在学中に第2回日本アマチュアシャンソンコンクールに優勝し歌手デビュー。「ひとり寝の子守唄」「百万本のバラ」「知床旅情」「琵琶湖周航の歌」などヒット曲がある。N.Y.カーネギーホールで2度のコンサートを成功させたのに続き、92年にパリのラ・シガール劇場でコンサートが認められ、フランス政府より芸術文化勲章「シュバリエ」が贈られた。女優として『居酒屋兆治』(1983年)に出演。宮崎駿監督のアニメ映画『紅の豚』(1992年)では声優としての魅力も発揮。2021年、日本訳詩家協会 会長に就任。
公式ホームページhttp://www.tokiko.com 近著に「哲さんの声が聞こえる」(合同出版)「運命の歌のジグソーパズル」(朝日新聞出版)「自分からの人生」(大和書房)。新譜「花物語」(ユニバーサルミュージック)/YouTube「土の日ライブ」毎月11日配信。