【第74回】


最初の詩人
 京都の古書店「善行堂」店主山本善行から、桜美林文学会の文芸誌『言葉の繭 第4号』が届いた。学生雑誌ということだが充実した内容。詩や小説、研究だけという内に閉じた学生雑誌ではなく、外部の人に書かせ、外に開いているのがいい。編集人の藤澤太郎さんは同大学の准教授。編集後記に「個人的には『ARE』(読者になったのは最末期でしたが)や『SUMUS』の影響をかなり強く受けてきた世代」と書いておられるのがうれしい。
 ここに挙げられた2つの雑誌は、いずれも私と山本善行が関わった同人誌だった。それ以前にも、我々は同人誌活動をしていた。そのことを『言葉の繭』に「同人雑誌の思い出」として山本が書いてくれている。そのまま私の若き日も重なっているので懐かしいのだ。『浮遊』という同人誌は、『言葉の繭』掲載の表紙画像を見ると、1982年1月号が創刊号。私は「風来坊」という詩、山本が正宗白鳥について評論を書いている。なにしろ40年も前のこと、ほとんど記憶になく、そうだったかなあという印象。
 ただ、この雑誌で知り合って、もっとも強烈だったのが森園清隆(名前もいい)さんという少し年上の詩人だ。同誌には小説を書いていたが、『ユリイカ』の投稿欄「解放区」に何度も詩作品が取られていたことがわかる。それがいずれも素晴らしい。私が生きている詩人(それも正真正銘の)と出会った最初の人が森園さんだった。
『ユリイカ』1976年「解放区」の選者は鈴木志郎康しろうやすさん。私もそれで森園さんの詩を後追いで読んだのだった。『言葉の繭』には『詩人会議』を含め、森園さんが書いた当時の投稿詩が集められ、ちょっとした小詩集の役目を果たして貴重である。私の記憶では、1976年の何度目かの投稿の講評で、「森園さんの詩はもうちょっと飽きた」というようなことを志郎康さんが書いていたことを覚えているが、つまりそれだけ眼鏡にかない、頻繁に選ばれていたと言えるだろう。
 会って親しくなると森園さんは不思議な青年だった。山本の文章によれば「同志社に六年とか七年とかいて(中略)二十七歳で大学生だった」。「生活の様子は不安げで、例えば、電車に乗って目的地に辿りつくとかお好み焼きをコテで切るとかは普通に出来なかった」というあたり、そうだったなあと思い出した。つまり、常識とか世間などとちょっと離れたところで生きていた。それこそ「詩人」だと、森園作品の素晴らしさを知っていたのでそう思ったものである。
 私がとくに「これはすごい」と感心したのが「リリーフ」という作品だった。一字下げの部分などを詰めて、引用するとこんなふうに始まる。
「先にリリーフを/出せば/打たれるという予感/があって/今度はなげない/投げる/リリーフ/なれないことで/つらいけど/だがそんなときは/逆だと/しんじている/打たれていない/予感」
 野球において、先発投手の後を引き継ぎ投げる役目を「リリーフ」という。たいてい、先発投手の球の威力が失われた終盤、ときに塁をランナーが埋めたところで処理をさせられる。この難しい立場を人生に置き換えて「リリーフ」としたのだ。森園さん自身は「お好み焼きをコテで切る」ことも出来ない(この場面もよく覚えていて、お好み焼きがぐちゃぐちゃになった)ぐらいだから、野球なんて実際にはできっこない人なのだ。
「リリーフが/悪ければ/ひとさわぎ/いつも/あやうい状況で/リリーフ/よりわるい状況が/リリーフしてくれるのか/どうか/そのひそのひの/つきしだい」という中途あたりの連で、私が言った意味がはっきりしてくる。大学7年生で就職もおぼつかない「あやうい状況」で、森園さんは「リリーフ」を仰ぎたかったのかと推察する。いや、そんなふうに読めばつまらないか。「リリーフ」という野球用語のリフレインが、不思議に別の言葉のように思えてくるのだった。
「けれど/いつも/だれかはリリーフ/である だれかが だれかの……/受けつがれたときは土の下で」
 そう締めくくられる「リリーフ」は間違いなく名作。あんまりいいので、当時「わぁ」とびっくりしたほど。「ハマエンドウ」(これまたいい)もそうだが、人と人の距離感、自分の弱さを身体感覚で書ける人だった。繊細すぎて、ちょっと変なところもあったが、それはこっちも同じ。笑かし屋の漫才コンビみたいな山本と私が、ふざけたことを言うと、細く長い指を持つ森園さんは「ホッホッホッ」と体をくの字にして笑っていた。ちゃんと“笑い”のわかる人だった。
 山本によれば、森園さんはこのあと京都を去り、故郷へ帰ったという。現在はどうしているだろう。気になって、一度名前をネット検索してみたが、何も情報が得られなかった。詩集を1冊、出させてあげたかった。詩壇の芥川賞と言われる「H氏賞」だってもらえる実力の人だった。
 こうなると、詩人として世間に名前が出るとはどういうことだろうと考える。鈴木志郎康さんの評論集『穂先を渡る 最新現代詩』(思潮社)に「最近の最近」という一文がある。そのなかで『現代詩手帖』に「日記(二月二十一日)」と題された、いわもとまりこの投稿詩が紹介されている。これが何とも面白い詩なのだ。副題は「正午すぎ、目黒駅前で、鈴木さんを見た。夜、明敏が発熱。」。この「鈴木さん」とは鈴木志郎康さんのことだ。
 いわもとまりこという女性が乳母車に子どもを乗せて、目黒駅前を歩いていると鈴木志郎康さんが家族で歩いている姿を目撃し、それを詩にした。
「私も、詩人になりたかった。/草多、という名を考えつくような/鈴木さんのように、書いた文字が印刷されて/本にのるような/詩人になりたかった」というのである。「草多」は「そうた」と読み、志郎康さんの長男の名前で詩の中によく出てきた。それにくらべ、彼女の息子の名前は「明敏あきとしという平凡な名、/父親と祖父の名前から一字ずつもらって/つけた/ポエジーなどみじんもない名」。
 詩人になれなかったことの淡い悲しみ。そして平凡な生活が綴られ「今日、夜になって/私の明敏は、発熱した。」で終わる。なんとも見事な詩なのだ。全編を読みたくなって、このところ私は古本屋や古本市でこの投稿詩が載った1978年6月号の『現代詩手帖』を探している。

富田木歩のこと
 昨年2021年の師走、思いがけず坂崎重盛しげもりさんからお誘いがあり、神楽坂で一献傾けることとなった。うれしい。2020年に始まったコロナ騒動の際中にはお目にかかっていないから、少なくとも2年、いやもっとお久しぶりである。坂崎さんは名編集者であり東京散歩の達人でその方面の著書多数。俳句も作る。私は『人と会う力』(新講社)という本を坂崎さん担当で作ってもらった。あんまり売れなくて申し訳なかった。
 坂崎さんと会うなら、世間話だけではなく、少しは実りのある話もしたい。そこで予習していくことにした。取材でなくても、私は人と会う際、こうして少し準備をしていく。『季刊銀花』の特集「当世日和下駄 東京の散歩道」(1993年6月号)と、小沢信男『俳句世がたり』(岩波新書)の2冊をカバンに入れ、行きの車中で読む。『銀花』で面白かったのが辻征夫の文章。そこで本所区新小梅生まれの俳人・富田木歩もっぽのことを書いている。2歳の時、両足麻痺で歩行不能となり、学校へは通わず「いろはがるた」で文字を覚え、俳句を詠むようになった。貧困の家を支えるため、姉が芸者になった。
 私は木歩のことをまったく知らなかった。ひょっとしてと思い、一緒に持ってきた『俳句世がたり』を開くと、果たしてちゃんと書いていた。かいつまんで紹介すると、木歩には新井清風という親友がいた。関東大震災の酸鼻のさなか、歩けぬ友を思って木歩のもとへ清風が駆けつける。あたりは火の中、清風は木歩をおぶって逃げ出した。しかし火は回り、このままでは生き延びられない。木歩は清風の背を押してとどまり、自分は残ることにした。やむをえず、清風は川に飛び込み、なんとか生き延びた。木歩はおそらくそこで命を落とした。すごい話である。
 興奮して、知ったばかりの木歩について坂崎さんに話すと、もちろんちゃんと知っていた。こんな句があると教えてもらったのに、酔っ払って忘れてしまった。『俳句世がたり』から一句、引いておこう。
「夢に見れば 死もなつかしや 冬木風」木歩
木歩のことをもう少し知りたく、そのあと山本健吉『定本 現代俳句』(角川選書)をひもとく。さらに詳しく、木歩の生涯について書かれている。
「四人の姉妹と一人の聾唖の弟とがあったが、姉妹は次々と苦界に身を沈め、そのうち妹一人と弟とは胸を患って死んだ。人形のヘチ取り、駄菓子商、貸本業などで細々と生計を立てた。彼自身も胸を病み、何回か喀血した」
 山本によって紹介された句を一部引けば以下の通り。
「我が肩に蜘蛛の糸張る秋の暮」
「己が影を踏みもどる児よ夕蜻蛉」
「かそけくも咽喉鳴る妹よ鳳仙花」
「面影の囚はれ人に似て寒し」
 自分の境涯を考え、木歩はそんなに長くは生きられないと自覚しただろう。山本は「境涯の俳人」と木歩を位置づける。どれも侘しく悲しい詠嘆の句ばかりでつらい。しかし句作をしていなければ、彼の存在は関東大震災で命を落とした多くのうちの一人に過ぎず、振り返られることもなかっただろう。
(写真とイラストは全て筆者撮影、作)

『ドク・ホリディが暗誦するハムレット オカタケのお気軽ライフ』(春陽堂書店)岡崎武志・著
書評家・古本ライターの岡崎武志さん新作エッセイ! 古本屋めぐりや散歩、古い映画の鑑賞、ライターの仕事……さまざまな出来事を通じて感じた書評家・古本ライターのオカタケさんの日々がエッセイになりました。

この記事を書いた人
岡崎 武志(おかざき・たけし)
1957年、大阪生まれ。書評家・古本ライター。立命館大学卒業後、高校の国語講師を経て上京。出版社勤務の後、フリーライターとなる。書評を中心に各紙誌に執筆。「文庫王」「均一小僧」「神保町系ライター」などの異名でも知られ著書多数。Blog「はてなダイアリー」の「オカタケの日記」はほぼ毎日更新中。