南條 竹則
第25回後編 ワイルド・ライス
 歌劇「夕鶴」の作曲家團伊玖磨だんいくまを文人と呼ぶことには無理があるだろうが、随筆『パイプのけむり』を残した彼は草野心平の友人でもあったから、ここに少し触れておきたい。
『パイプのけむり』は、わたしが中学の頃の愛読書だった。家の近くの区立図書館に単行本が揃っていたからだ。
 このシリーズには食べ物の話がよく出て来る。朝鮮料理のことなど、わたしは團伊玖磨の文章によって初めて知り、食べてみたくてならなくなった。その頃、フランスから帰国した父親が食事に連れて行ってくれるというので、朝鮮料理が食べたいと言ったら、表参道の角にあった店へ連れて行ってくれた。店の人が硬い冷麺レーメンを鋏でチョキチョキ切るのを見て、驚嘆したことを憶えている。
 團伊玖磨の食の世界は、草野心平のそれにも劣らず広い。世界中の美味珍味を偏見なしに試している。彼にとってゲテモノなどというものは存在しない。土地の人が食用として扱う素材は何でも平気で食べる。「餓鬼の道」に登場する「先生」は言う──
「食に対して、洋の東西、人は、無教養な人程保守的なものです。自分の過去の食習慣から出られないのですね。味覚もまたそうです。狭い狭い人間が多いのです」
「無教養とはひどく無いですか」
「前進的なポテンツの無い教養など無いですよ」(『パイプのけむり選集 味』小学館文庫256-7頁)
 その團伊玖磨がある時、イーデス・ハンソンから「ワイルド・ライス」という物をもらった。それは「精米とは全くちがって色あく迄黒く、外米よりももっと極端に細長く、その一粒をんでみると、かりかりと固く、一寸香ばしかった」(前掲書160-1頁)。教わった通りに3・5倍の水でこれを炊いて、薄塩を振り、バター炒めにして食べたところ、「口の中でちょっとゴソゴソしたけれども、結構戴けた。」
 調べてみると、「ワイルド・ライス」はアメリカ産の菰の実、中国語で言う「菰米」だったのだが、これをもらった経緯いきさつが面白い。
 イーデス・ハンソンといえば、わたしのように還暦を過ぎた方は御存知だろうが、日本に於ける外国人タレントの草分けのような存在である。達者な関西弁をしゃべるアメリカ人の美女で、特に一九六○年代、映画にテレビに活躍した。
 彼女は木登りが趣味で、『花の木登り協会』という本を書いたくらいだが、東京にいると中々それができない。そこで、ある時、團伊玖磨と一緒に明治神宮外苑へ行き、彼が見張りをしている間に大公孫樹おおいちょうの木によじ登った。そのあと立ち寄った青山三丁目の喫茶店で、團伊玖磨にプレゼントしたのが、「Base Treeの花の蜂蜜」とワイルド・ライスだった。

 團伊玖磨は好奇心旺盛な人で、珍しい食べ物に出逢うと色々調べてみる。
 開高健との対談で、草野心平が「蟹のうどん」といった蟹は、もちろん「大閘蟹」(上海蟹)だ。この蟹は和名をシナモクズガニといい、日本にいるモクズガニと見た目は良く似ている。
 ある時、團伊玖磨は陶芸家の中里太郎右衛門に唐津の「飴源」という料理屋へ連れて行かれて、モクズガニを味わった。香港で食べた上海蟹に似ていると思ったが、上海蟹はシナモクズガニとモクズガニのどちらだろうということが気になった。中国には両者が棲息するので、この疑問が生じたわけだ。
 そんなことを考えていると、例の陶芸家から提案があり、唐津のモクズガニと輸入された上海蟹とを食べ較べてみることになった。数人の有志が、芝の大門だいもんの前にある上海料理の老舗「新亜飯店」に集まり、楽しい食べ較べの会を開いたのである。
 この話を記した「蟹の甲」という文章は、両者の形状がわずかに違うことを述べているが、味については記していない。
 わたしの経験では、日本のモクズガニの方が淡白な印象がある。以前上海蟹の輸入が滞った時、「龍口酒家」の石橋ゆきさんがモクズガニで酔蟹をつくってみたことがある。その時にそう感じたのだが、本式に食べ較べてみないから、一概に言えない。
 モクズガニは案外と日本の各地で食べられる。
 近頃わたしが定宿にしている山形県の旅館でも、時々最上川のモクズガニの鍋を出す。蟹一杯と豆腐と大根、それに舞茸と葱が小鍋の中でグツグツ煮えている。
 蟹はあまり食べるところがないが、味噌が溶け出した汁は濃厚だ。「蟹のうどん」を思い出して、試しにカップ麺の麺を入れてみたら美味かった。どぶろくに合う。

(文中敬称略)


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この記事を書いた人
文/南條 竹則(なんじょう・たけのり)
1958年生まれ。東京大学大学院英語英文学修士課程修了。作家、翻訳家。
『酒仙』で日本ファンタジーノベル大賞優秀賞を受賞。以後、幻想小説、温泉、食文化への関心が深く、著書も多い。主な著書に、小説『魔法探偵』、編訳書『英国怪談珠玉集』など多数。

絵/橋本 金夢(はしもと・きんむ)