《死を悼む》 一羽の鳥-C.W.ニコルを悼む
 2020年の4月は憂鬱な春でした。
 新型コロナの本格的なパンデミックが始まり、緊急事態宣言が出されようとしていた4月3日、C.W.ニコルさんが亡くなりました。
 1940年7月17 日、ウェールズ生まれでしたから、もうすぐ80歳。長く、重たく、波瀾万丈の80年だったと思います。
 私が初めてお会いしたのは1980年代でしたから、まさに後半生。日本に定住を決められてから、丹精込めて黒姫山の裾野に「アファンの森」を残した森の人としてのニコルさんでした。
 でも、彼の体を抱きしめるたびに、泣きたいくらい故郷を愛する寂しがり屋でホームシックの少年を感じていました。
 今頃になって、彼の生まれてからの人生を辿ってみると、あの大きな体に吹き荒れたであろう嵐の激しさが伝わってきます。
 なんと、ニコルさんのお父さんは日本との戦争で捕虜となり、シンガポールで処刑されて亡くなっています。作家としても、日本への大きな愛を書き続けたニコルさんの、この原点に驚きます。
 父を亡くした幼少時のニコルさんは、祖父に愛されて育ちますが、ウェールズ語しか話せない英語の苦手な少年だったために、友達にいじめられたそうです。その悔しさに学校嫌いになった!
 10歳の時には、母親が再婚し、その新しい父親の勧めで、「海洋少年団」に入り、体を鍛えることに邁進まいしんするようになり、そこで日本の柔道とも出合います。
 14歳の時、小泉軍治さんという柔道の師匠に心酔しますが、そこですぐに日本語と繫がったわけではありません。
 17歳の時、学校の生物学の教師の勧めで、親の賛同もなく、極地探検隊に入ります。それが、ニコルさん自慢の「北極への家出」!
 やっとイギリスに戻り大学に入ったものの、20歳になって大好きなお祖父じいさんが亡くなった後に中退。22歳で空手道を学ぶために日本に。英会話の先生などのアルバイトをしながら、初段を取得。その後カナダの極地での仕事につき、イヌイットの家族と生活し、エチオピアの国立公園で働き、再び来日して日本大学で日本語と水産学を学び、日本人女性と結婚し、2人の子供ができ、後に離婚…。
 ニコルさんの青春の荒波は、大空を超えて行く鳥の如し。
 1975年、沖縄海洋博のカナダ館の副館長としての来日、77年にはカナダ政府のユーコン川探検隊として派遣されています。
 私が80年代半ばに、初めてニコルさんの黒姫のご自宅をお訪ねした時、この探検隊の時に書き留めたノートを見せてくださいました。
「トキコには、もうこの時に出会ってる。北極のテントで日本人が持ってきていたカセットで聴いた『帰りたい帰れない』。この時、あなたの歌に泣いたんです。母が亡くなった後だったからね。僕は、何年も母に会っていなかったし、亡くなった後も帰らなかったからね」
 76年にお母さんは58歳という若さで亡くなっています。
 78年に再来日、和歌山県の太地たいじ町に1年間暮らし、海の男の生き様を『勇魚いさな』(文春文庫)として書き上げ、作家としての地位を築いたニコルさんですが、79年に「ニックとともだち」としてヤマハポプコンで自作の歌「りんごの木にかくれんぼ」を歌って入賞しています。
 私が初めてお会いしたのも、ムツゴロウさんのイベント「むつさんと」でこの「りんごの木にかくれんぼ」を素敵に歌っているニコルさんでした。
 86年に「アファンの森」での里山の再生に邁進してからのニコルさんとは、何度もお会いするようになりましたが、思い出深いのは、87年5月、鴨川自然王国で私と藤本敏夫の結婚15周年パーティを開いた時、夫とニコルさんが初めて会い、意気投合していたことです。「アファンの森」と「鴨川自然王国」、王様ふたりの夢談義に熱が入っていました。
 95年に日本国籍を取得された時、「僕も刑務所に入れてもらえるようになったと、ご主人に伝えてください」と笑って言われました。これまではもし法を犯すことがあったら即、国外追放になってしまい、裁判を受ける権利も、国と闘う権利もなかった、というのです。
「アファンの森」をつくるために、土地を買う権利も必要だったし、ニコルさんの怒りの元になっていた、「水源地へのゴミの放棄」「川のコンクリート護岸」「森の木の無秩序な伐採」、全てが国と闘うことに繫がっていますから、無理もないです。
 でも、日本の法律では、日本国籍を取得するためには他の国籍を離脱しなければなりません。この時彼は、イギリスの国籍と、カナダの国籍を失いました。故郷ウェールズをこよなく愛するニコルさんにとって、どれほど寂しいことだろうか、と胸が痛みました。
 2011年東日本大震災の後、東北の支援に邁進したニコルさんが、私に声をかけてくださり、晩年まで一緒にいろんな仕事ができたことが嬉しいです。
 2013年津波で水没した東松島の野蒜のびる地区を歩いた時、ここを渡り鳥の来るウェットランドにしたい、と構想を語っていた姿を思い出します。
 もともと海だった地域を埋め立て田んぼにしたけれど、全部が海に戻ったのだから、「もう一度自然に返そう」と。
 でも結論的には「元の田んぼに戻す」という日本の復興の原則を変えられず、この構想は立ち消えたと思います。
 津波被害にあった鳴瀬未来中学校の校歌「いつもそばにいるよ」と、ニコルさんの「森の学校」構想で設立された宮野森小学校の校歌「森はともだち」を作詞・作曲させていただけたことがとっても嬉しい宝物として残りました。
 ニコルさんはもういないけれど、アファンの森は生き続けます。そしてきっと、東松島の子供たちも、大きく育っていくでしょう。
 私の作詞・作曲したこの「一羽の鳥」を、ニコルさんの魂に捧げます。

2013年1月20日 福島市にて

(写真は筆者提供)

一羽の鳥
 作詞・作曲:加藤登紀子
一羽の鳥が空から落ちて
大地を紅く染めた
大地を紅く染めた
私は夕日の中で
茜色の空を見上げた
山を越えて飛んできたのか
海を越えて飛んできたのか
力尽きたお前は
一羽の鳥が空から落ちて
海を紅く染めた
海を紅く染めた
私は夕陽の中で
寄せる波に身を投げ入れた
どこまで行けばいいのだろうか
どこまで行けばいいのだろうか
力尽きる前に
 1979年9月10日発売 アルバム『悲しみの集い』 収録

(JASRAC許諾第9023555003Y38029号) 

筆者が作詞・作曲した鳴瀬未来中学校の校歌「いつもそばにいるよ」

この記事を書いた人
加藤 登紀子(かとう・ときこ)
1965年、東大在学中に第2回日本アマチュアシャンソンコンクールに優勝し歌手デビュー。「ひとり寝の子守唄」「百万本のバラ」「知床旅情」「琵琶湖周航の歌」などヒット曲がある。N.Y.カーネギーホールで2度のコンサートを成功させたのに続き、92年にパリのラ・シガール劇場でコンサートが認められ、フランス政府より芸術文化勲章「シュバリエ」が贈られた。女優として『居酒屋兆治』(1983年)に出演。宮崎駿監督のアニメ映画『紅の豚』(1992年)では声優としての魅力も発揮。2021年、日本訳詩家協会 会長に就任。
公式ホームページhttp://www.tokiko.com 近著に「哲さんの声が聞こえる」(合同出版)「運命の歌のジグソーパズル」(朝日新聞出版)「自分からの人生」(大和書房)。新譜「花物語」(ユニバーサルミュージック)/YouTube「土の日ライブ」毎月11日配信。