第28回 里見弴『慾』三版の謎と使われなくなった言葉

清泉女子大学教授 今野真二
 里見弴『慾』は、『春陽堂書店発行図書総目録(1879年~1988年)』(以下『総目録』)の111頁と161頁とに載せられている。111頁は大正8(1919)年9月21日に出版された『慾』(【図1】外箱)、161頁は大正14(1925)年11月20日に出版された『慾』のことと思われる。前者は、四六判334頁、1円80銭、後者は四六判264頁、1円40銭と記されている。

【図1】

 筆者はどちらも所持しているので、確認してみると、ページ数、価格は記されているとおりである。しかし、本の大きさは明らかに異なる。四六判は、原紙クラウン判を32分割すると、4寸2分(128ミリメートル)×6寸2分(188ミリメートル)であるところからの名称だが、前者はたしかにこの大きさであるが、後者は横116ミリメートル、縦173ミリメートルでひとまわり小さい。この大きさまで四六判と呼ぶことがあったのだろうか。

 それはそれとして、もう一つ謎がある。『総目録』に記載された後者『慾』の奥付には「大正八年九月十八日印刷/大正八年九月廿一日発行/大正十四年十一月二十日三版」とある。この印刷日と発行日は前者『慾』の奥付と同じであるので、そのことからすれば、前者を印刷出版するにあたって、同時につくった廉価版ということになる。しかし、両者はページ数が異なることからわかるように、版面が異なる。『総目録』は後者を大正14年11月のところに記述している。そのことからすれば、この年月日に廉価版として出版されたことになる。それでは「三版」はなんだろうか。前者を初版とみて、廉価版を再版とみることはあるだろうが、第「三版」ということになれば、もう一版存在することになる。それは実際に出版されているのか、いないのか。このように、丁寧にみていくと、(明治期)大正期の出版にかかわることがらで「謎」は少なくない。

 さて、『総目録』記載の前者『慾』の外箱は、赤が鮮明なちょっとおしゃれなデザインであるが、装幀を担当した人物の名前は本に記されていない。題字は有島武郎。【図2】は外箱の裏であるが、「名古屋市中区/門前町五丁め/加藤宇太郎様方/水原玲一郎様」とある。そして、【図3】はこの本に挟まっていた「水原玲一郎様」あてのはがきだ。末尾には「九月二日/里見弴」とある。この日付が大正8(1919)年なら、新刊発売前に著者から送られた謹呈本かもしれない。

【図2】

【図3】

 この本に収められている「刑事の家」に次のようなくだりがある。
 八月ももう末近くなつても、今だに容子のない姙婦は、永い間暑さでクサクサしてゐるらしく、ことごとにトゲトゲしい聲をたてゝゐた。姉のお市などはコツパイだつた。お千代は、母親が餘りガミガミ云ふと、さつさとそばを離れて、私たちの部屋の方へ顔を出した。(92頁)
『日本国語大辞典』第二版の見出し「こっぱい」には次のように記されている。
 こっぱい【粉灰・骨灰】〔名〕(形動)(1)こまかくうちくだくこと。こまかくくだけること。また、そのさま。こなみじん。*黄表紙・面向不背御年玉〔1787〕「かの張子の面向不背の玉をこっぱひのたまに蹈み砕けば」*歌舞伎・傾城青陽[集+鳥]〔1794〕五幕「ヤイヤイ、樽肴が骨灰(コッパイ)になるわい」(2)さんざんな目にあうこと。ひどく言いたしなめられること。また、そのさま。こつばい。*雑俳・名付親〔1814〕「こっぱいじゃ・白雨に逢ふた扇子店(みせ)」*滑稽本・四十八癖〔1812~18〕三「病(やまひ)がものいふたらば、医者は骨灰(コッパイ)であらう」*歌舞伎・夢結蝶鳥追(雪駄直)〔1856〕四幕「これは椿事ちうよう、今親仁が盗みをして縛られて行ったばっかり、又跡釜(あとがま)に忰(せがれ)とは、こりゃ家主(いへぬし)はこっぱいだわえ」
 現代日本語では「コッパイ」を使わない。『日本国語大辞典』が掲げている使用例からすれば、「コッパイ」は江戸時代の語といってよいだろう。92頁の「コッパイ」は『日本国語大辞典』の(2)「さんざんな目にあうこと」という語義で使われていると思われる。
『日本国語大辞典』は「コッパイ」に漢字列「粉灰」「骨灰」を記しているが、里見弴は片仮名で書いている。この片仮名による文字化は「コッパイ」が漢字から離れた語、「はなしことば」として使われていたことを推測させる。そういう目で、『慾』をみていくと、「アクセク」(6頁)「シワンボウ」(8頁)「トバッチリ」(8頁)「ノホウズ」(12頁)「ヨタ」(13頁)「ノベツ」(15頁)「カラキシ」(16頁)「ズボラ」(30頁)「グウタラ」(32頁)「コンチヤ」(77頁)「チヨコマカ」(81頁)「ゲツソリ」(100頁)「ヘツポコ先生」(144頁)「チヨロツカしてやられて」(196頁)「ヒヨコスカ」(196頁)など、さまざまな語が片仮名によって文字化されている。
 江戸時代に使われていた語が明治時代になってどのくらい使われていたか、ということも興味深い。そして明治21(1888)年に生まれた里見弴と、明治25(1892)年に生まれた芥川龍之介、年代は近くても両者の作品を構成する日本語には違いがあるようにも感じる。
◆参考:
『春陽堂レトロスペクティブ』第24回 芥川龍之介『春服』ルビのおかげで確かな用例を発見
同第14回 里見弴『山手暮色』外来語の文字化
(※レトロスペクティブ…回顧・振り返り)

『ことばのみがきかた 短詩に学ぶ日本語入門』(春陽堂ライブラリー3)今野真二・著
[短いことばで、「伝えたいこと」は表現できる]
曖昧な「ふわふわ言葉」では、相手に正確な情報を伝えることはできない。「ことがら」・「感情」という「情報」を伝えるために、言葉を整え、思考を整える術を学ぶ。

この記事を書いた人
今野 真二(こんの・しんじ)
1958年、神奈川県生まれ。清泉女子大学教授。
著書に『仮名表記論攷』(清文堂出版、第30回金田一京助博士記念賞受賞)、『振仮名の歴史』(岩波現代文庫)、『図説 日本の文字』(河出書房新社)、『『日本国語大辞典』をよむ』(三省堂)、『教科書では教えてくれない ゆかいな日本語』(河出文庫)、『日日是日本語 日本語学者の日本語日記』(岩波書店)、『『広辞苑』をよむ』(岩波新書)など。