《天と地の間で》 海からの願い
 1972年は、連載第36回「色即是空」の中でも触れましたが、私にとって劇的な年になりました。1月に中東へのひとり旅をやり遂げ、4月11日の渋谷公会堂でのリサイタルでは、旅から帰った興奮の中で作ったいくつかの曲を歌い、コンサートのライヴ盤として発売されることになっていました。そうした中、藤本敏夫との別れの日は刻々と近づいていました。
 4月21日、藤本の裁判が終わり、3年8カ月の実刑判決を受けて収監されたのです。
 それからの日々の寂しさは覚悟していたはずなのに、3年余り、決して会えず、手紙も書けない、という現実には打ちのめされました。拘置所に入所している時は親族でなくても面会でき、手紙も書けますが、実刑は厳しいものです。
 それに追い討ちをかけるように、私は体の異変に気づくことになりました。彼が残してくれた小さな命!
 ひとり悩んだ末、出産、結婚を決断し、弁護士を通して藤本の合意を得て、服役中の中野刑務所で特別面会が許され、5月6日、私たちは看守に見守られながら、結婚を決めました。
 後になって彼が「神前でも、人前でもなく、愉快な官前結婚式」と呼んだ結婚式!
 全面的にこの結婚を応援してくれた石井好子さん(当時、所属していたプロダクションの社長でもあった)はこう言ってくださったのです。
「仕事のことは一切気にしなくていいのよ。私が全部始末をつけます。ただお腹が大きくなってから歌うのはやめてほしい。出産、結婚のことは、適当な時期に記者会見しましょう。それまでは、誰にも知られないように」
「海からの願い」は、そんな決断をしてからの初めて作った曲でした。
生まれたばかりの魚のように
初めて知った水の冷たさ
 誰にも言えないけれど、私の中だけの祝福の気持ちを込めての歌詞でした。
 アレンジをお願いしたのは、深町純さん。東京藝大在学中からポピュラーミュージックを手がけ、シンセサイザーの先駆的な演奏者としても飛び抜けた存在でした。レコーディングが8トラックになり、何もかもが新鮮で、クラシックのコーラスをイントロに、という斬新なアレンジ。
 もうひとつ、この曲は「Save Our Sea」という海の環境へのメッセージソングとして作詞・作曲したものでした。
 今から50年前、環境問題が日常的に話題になる時代ではなかったけれど、生活排水による川の水質汚染とか、産業廃棄物による公害問題が大きなニュースになっていた時代でもありました。
 実はこの年は、ローマクラブが『成長の限界』を出版。国連が地球環境の監視をするために国連環境計画(UNEP)を設立した年でもあります。
 1972年といえば、日本も世界も急激な経済成長が始まった年。その年に、もうすでにこれ以上の成長を控えよう、とSOSが出ていたとは、何とすごいことでしょう。
 私にとっては、初めて命と向き合う覚悟を決めた年、世界への視野がこの広い地球へと広がった年。そしてひとりぼっちの、いいえ、小さな命との航海のスタート!
「海からの願い」には、そんな張り詰めた思いがいっぱい溢れています。
 この5月22日、緊急発売したウクライナ避難者への支援CDの中で、改めてレコーディングしました。ぜひ、そのCD『果てなき大地の上に』でも聴いてください。

2022年5月22発売 アルバム『果てなき大地の上に』ジャケット写真

(写真は筆者提供)

海からの願い
 作詞・作曲 加藤登紀子
生まれたばかりの魚のように
初めて知った 水の冷たさ
ふるさとの 川の流れに
今 手を入れて
なぜか 身体がふるえ
なぜか 涙が あふれる
なんでも ないのに
ただ その冷たさを
これから何がはじまるのかも
何も知らずにいたあの頃
ふるさとの 浜辺でひろった
白い貝がらを
海の彼方にうかべ
赤い夕焼けの中を
どこまでも
泳いでいた あの頃
赤い夕焼けの中を
はるか海の彼方へ
赤い夕焼けの中を
はるか海の彼方へ
どこまでも
泳いでいた あの頃

 1972年9月1日発売 アルバム『色即是空』収録
 2022年5月22日発売 アルバム『果てなき大地の上に』新録

(JASRAC許諾第9023555003Y38029号) 
この記事を書いた人
加藤 登紀子(かとう・ときこ)
1965年、東大在学中に第2回日本アマチュアシャンソンコンクールに優勝し歌手デビュー。「ひとり寝の子守唄」「百万本のバラ」「知床旅情」「琵琶湖周航の歌」などヒット曲がある。N.Y.カーネギーホールで2度のコンサートを成功させたのに続き、92年にパリのラ・シガール劇場でコンサートが認められ、フランス政府より芸術文化勲章「シュバリエ」が贈られた。女優として『居酒屋兆治』(1983年)に出演。宮崎駿監督のアニメ映画『紅の豚』(1992年)では声優としての魅力も発揮。2021年、日本訳詩家協会 会長に就任。
公式ホームページhttp://www.tokiko.com 近著に「哲さんの声が聞こえる」(合同出版)「運命の歌のジグソーパズル」(朝日新聞出版)「自分からの人生」(大和書房)。新譜「花物語」(ユニバーサルミュージック)/YouTube「土の日ライブ」毎月11日配信。