《天と地の間で》蒼空(SOKU)
 この歌で、どうしても思い出すのは、1995年のハイジャック事件。歌手生活30周年全国ツアー中の6月21日、羽田から函館に向かった全日空機が、何者かにハイジャックされたのです。私たち一行はミュージシャンとマネージャーと母。滅多に演奏旅行に同行することのない母が一緒だったことが、今では懐かしい思い出となり、誰も被害に遭わずに終わったことで、なかなかの経験をさせてもらった、という感慨だけが残ることになりました。
 とはいえ、飛行中に緊急時の姿勢を取らされて、どこに向かうのかわからなかった恐怖の時間、函館空港に着陸したものの、もう一度給油後にどこかに飛び立つと聞かされて、機内に閉じ込められた16時間。ミュージシャンのひとりは遺書を書いたと聞きましたが、私は自分の一生を空の上から俯瞰するような不思議な気持ちになっていました。
 どこかで終わる人生、「今じゃ困るな」と思うより、ここで終わったら何が起こるのか、を考えていました。
 まず3人の娘と夫の姿が浮かび、それなりに楽しそうなそのシーンに、大丈夫、うまく生きていってくれそうだなと安心感をもらいホッとしたのですが、心配はミュージシャンの家族のことでした。
 私のツアーで遭遇した事件だから、全面的に私の事務所が責任を取ることになるだろう、一家を支える父を亡くしたとなれば、のこされた家族の生活を考えなければならないな、とか、いろんな報道で混乱がおきないか、追悼番組で最後に歌った日の映像が必要だといわれそうだ、とか…。
 こんなふうにのんびりと、「死」について考えることができるなんて、思いも寄らないと思われそうですが、あの時の機内は驚くほど静かでした。「当機はハイジャックされました」のアナウンスの時でさえ、驚きの声ひとつなかったのです。
 痛かったり、怖かったりしなければ、人は冷静なものだな、と思いました。
 それでも、特別機動隊の突入で犯人が逮捕され、乗客として解放された時、飛行機を降りて見た空の色を今も鮮明に覚えています。
 明け方4時の北海道の風は冷たく、空の深いブルーが美しく、その日の公演会場の苫小牧までのバスの中から見た田園風景のひとつひとつがみんな体に染み入るようでした。
 ステージで音を出した時、ミュージシャン全員が嬉しさいっぱい、うるうるしている心の震えが伝わってきました。
 人間って不思議なものです。歌う嬉しさに気がついたことがいつのまにか私を動かしていたのでしょう。
 その年、ひと夏のうちに曲を書き、全曲書き下ろしのアルバム『晴れ上がる空のように』が生まれました。
「そこには風が吹いていた」「つばさ −翼—」「Never Give Up Tomorrow」など、今も大切に歌っている曲が詰まったアルバム。そのレコーディングの最後を締めくくった曲が「蒼空」でした。
 この曲も実は、なかなか詞ができなくて、レコーディングのために逗留した伊豆のスタジオで、もうほとんどレコーディングが終わる頃、本当に空から降ってくるように言葉が出てきたのです。
どこまでも蒼い空 ふりそそぎ満ちてくる
限りない海の底から あふれ出る波のように
胸をつたう あつい涙
 生きるということを空の上から俯瞰した、あの飛行機の中での16時間が、私にくれたフレーズだったのかもしれません。
 今思い出すのは、2011年の東日本大震災の時、4月にやっと訪ねることができた岩手県の山田町の港で、船が打ち上げられた埠頭の先で、空の蒼さを映した水の底に、船が沈んでいるのを見た時、誰にでもなく、ただ静かに海の底に向かって、この歌を捧げたことです。
 この広い天と地の狭間で、小さな生き物として生きる、途方もない心細さを厳粛に受け止めるための命の讃歌、ひとりで空と向き合う孤独の讃歌です。

2020年島根県江津市にて

(写真は筆者提供)

蒼空(SOKU)
 作詞・作曲 加藤登紀子
どこまでも蒼い空
ふりそそぎ満ちてくる
限りない海の底から あふれ出る波のように
胸をつたう あつい涙
突き抜ける遠い空
陽を浴びてはずむ心
踏みしめる大地の上に
絶え間なく響く鼓動
胸の奥に うずく想い
この蒼空を 超えて行く鳥のように
さびしさも うれしさも いとしさも
抱きしめて
届かない無限の空
狂おしく叫ぶ風
抱きしめる胸のうちに
呼びかける愛の炎
指をつたうあつい涙

 1996年11月21日発売 アルバム『晴れ上がる空のように』収録

(JASRAC許諾第9023555003Y38029号) 

この記事を書いた人
加藤 登紀子(かとう・ときこ)
1965年、東大在学中に第2回日本アマチュアシャンソンコンクールに優勝し歌手デビュー。「ひとり寝の子守唄」「百万本のバラ」「知床旅情」「琵琶湖周航の歌」などヒット曲がある。N.Y.カーネギーホールで2度のコンサートを成功させたのに続き、92年にパリのラ・シガール劇場でコンサートが認められ、フランス政府より芸術文化勲章「シュバリエ」が贈られた。女優として『居酒屋兆治』(1983年)に出演。宮崎駿監督のアニメ映画『紅の豚』(1992年)では声優としての魅力も発揮。2021年、日本訳詩家協会 会長に就任。
公式ホームページhttp://www.tokiko.com 近著に「哲さんの声が聞こえる」(合同出版)「運命の歌のジグソーパズル」(朝日新聞出版)「自分からの人生」(大和書房)。新譜「花物語」(ユニバーサルミュージック)/YouTube「土の日ライブ」毎月11日配信。