南條 竹則
第28回 お昼の蕎麦
 前回言ったように、内田百閒の「餓鬼がきどうこう目録」には、「ソノ後デ思ヒ出シタ追加」「年ガラ年中有ツタノハ」という二条の付けたりがある。
 後者の内容は次の通り。
林檎
牛乳
少シ前ハ英字ビスケツト
ベーコン
オ午ニそば二ツ宛
麦酒
炭酸水
オ刺身又ハ洗ひ コレハ時化デナイ限リ必ズ 殆ンド毎日小鯛ノ塩焼(『御馳走帖』236-237頁)
「鬼苑日記」によると、百閒は「一日一回晩飯しか食はな」かった。
 尤もさう云ふのは、お膳に坐つて箸を取る事が夕方だけと云ふのであつて、朝から一日ぢゆう腹をほしてゐるわけではない。朝飯代りには牛乳一合と英字ビスケツト一握り、林檎一顆づつ食べる。午にはもり又はかけを一つ宛食べる。暖かい間はもり、寒い間はかけと云ふ事にしてゐる。もう四五年来このきたりを変へない。(同137頁)
「こちめし」も母親の手料理である。その製法は──
 こちを湯がして皮を去り、その身を切れに包んで固くしぼる。絞り汁は別に取つておいて、後で味をつけて掛け汁にする。切れの中に残つた身をよく崩して摺り鉢に移して摺る。摺り潰すのではなく、食つついてゐる身をほごしてさらさらとさせる為である。又さうしてゐる内に白身の繊維につやが出て細い銀糸の様な美しいきめになる。
 御飯の上にその身を振り掛け、色取りと風味を加へる為に、芹を微塵に刻んだのを添へる。その上から絞つた汁をほんの少し許り掛けて食べる。掛け汁の味加減をどうして出すのかよく知らないが、多分酒塩で煮なほすのだらうと思ふ。(「こち飯」前掲書237-238頁)
 ここにはベーコンは出て来ないけれど、やはり朝食べたのだろう。
 こうして一日腹を程良く減らしておいて、彼は「ただひたすらに、夕食を楽しみにしてゐる。一日に一ぺんしかお膳の前に坐らないのだから、毎日山海の珍具佳肴を要求する。(「百鬼園日暦」、前掲書69頁)」
「オ刺身又ハ洗ひ」と「小鯛ノ塩焼」は、満を持して臨んだ晩の御馳走の一部であるが、東京の家庭でこれらが毎日のようにあったというのは、相当な贅沢といえよう。
 昼間の蕎麦が食事のうちに数えられないというのも何だか贅沢な話だが、百閒の文章を読んでいると、食事でないその蕎麦がいやに存在感を持って迫って来る。この作家ならではの不思議な現象だ。
「百鬼園日暦」によれば──
 大体秋の彼岸から春の彼岸までは、盛りかけ一つ宛を半分宛食ふ。春の彼岸から秋までは盛り二つを一つ半位食ふ。夏の方が朝が早いのでそれ丈腹がへるらしい。学校を止めて以来ずつとその習慣を変へない。蕎麦屋もすつかり馴れて必ず正午にお待ち遠様と云つて届ける。五分かせいぜい十分位までは腹が立たないが、それ以上遅れるとむしやくしやして来る。さう云ふ時は一一いちいち勝手口で叱言を云はせる様にして長い間訓練して来たから、この頃は正午を知らせる様に蕎麦屋が這入つて来る。さう八釜しい事を云ふ癖にこちらの時計は余りあてにはならない。特にこの頃はラヂオが鳴らないから時報を聞く事も出来ないので、本当は正午だか何だかよく解らないのだけれど、蕎麦屋が来たから正午だと云ふ風に考へ出した。(同69頁)
 そこまで仕込んで届けさせた蕎麦の味はどうかというに──
 蕎麦屋は近所の中村屋で、別にうまいも、まづいもない、ただ普通の盛りである。続けて食つてゐる内に、段段味がきまり、盛りを盛る釜前の手もきまつてゐる為に、箸に縺れる事もなく、日がたつに従つて、益うまくなる様であつた。うまいから、うまいのではなく、うまい、まづいは別として、うまいのである。爾来二百余日、私は毎日きまつた時刻に、きまつた蕎麦を食ふのが楽しみで、おひる前になると、いらいらする。朝の内に外出した時など、午に迫つて用事がすむと、家で蕎麦がのびるのが心配だから、大急ぎで自動車に乗つて帰る。たかが盛りの一杯や二杯の為に、何もそんな事をしなくても、ここいらには、名代の砂場があるとか、つい向うの通に麻布の更科の支店があるではないかなどと云はれても、そんなうまい蕎麦は、ふだんの盛りと味の違ふ点で、まづい。八銭の蕎麦の為に五十銭の車代を払つて、あわてて帰る事を私は悔いない。(「菊世界」、前掲書36-37頁)
る」とはまさしくこういうことを言うのであろう。
*読者は、「餓鬼道肴蔬目録」に「やぶ蕎麦ノもり」が入っていることと、ここに引いた百鬼園の言説に矛盾を感じられるかもしれない。蓋し両者は百閒にとって別個のカテゴリーに属したものか。


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この記事を書いた人
文/南條 竹則(なんじょう・たけのり)
1958年生まれ。東京大学大学院英語英文学修士課程修了。作家、翻訳家。
『酒仙』で日本ファンタジーノベル大賞優秀賞を受賞。以後、幻想小説、温泉、食文化への関心が深く、著書も多い。主な著書に、小説『魔法探偵』、編訳書『英国怪談珠玉集』など多数。

絵/橋本 金夢(はしもと・きんむ)