最終回 尾崎紅葉『片ゑくぼ』語意の検証

清泉女子大学教授 今野真二
 今回は尾崎紅葉『片ゑくぼ』(明治27年12月)を採りあげたい。【図1】は表紙であるが、そこには右から左にむかって「片ゑくほ」と記されている。

【図1】

【図2】は本文1頁で、いわゆる内題には「片靨かたゑくぼ」とある。

【図2】

 本書の正式名称はどちらだろうか。表紙の「片ゑくほ」は活字ではなく、手書き風であるので、これはデザインとみることはできる。そして奥付部分に「片ゑくぼ奥附」とあることをもって、正式名称「片ゑくぼ」とも考えられる。それでも、内題に「片靨かたゑくぼ」とあるわけで、正式名称は「片ゑくぼ」なのか、漢字で「片靨かたゑくぼ」なのか、迷う。

【図3】

 さて、【図3】は表紙見返しに挟み込まれている口絵で、右端にある朱の印は「年方」とみえ、左端にある朱の印は「省亭」とみえる。「年方」は浮世絵師、日本画家として知られている水野年方としかた(1866-1908)、「省亭」は西洋風の表現をとりいれた花鳥画で知られる渡辺省亭せいてい(1852-1918)で、この口絵は両者の合作ということだ。水野年方は短期間省亭の弟子であったことがわかっている。
 省亭は明治22(1889)年に刊行された、山田美妙の『蝴蝶』に裸婦を描いて評判となる。春陽堂とのかかわりでいえば、省亭は、明治23(1890)年から明治27(1894)年1月にかけ刊行された『美術世界』全25巻の編集主任をつとめている。最終巻である第25巻には省亭の花鳥画が収められている。
【図2】には「紅葉/風葉」とあって、合作のかたちの署名になっている。『春陽堂書店発行図書総目録(1879年~1988年)』においては、「著・訳・編者」の欄に「尾崎紅葉・江見水蔭」と記されている。この「江見水蔭」はどのような「情報」に基づいているのだろうか。あるいは「小栗風葉」とあるべきか。
 見出し「(一)化生のもの」の下には、「下谷區谷中初音町二丁目拾三番地/川田屋號 有田貸本店」とあって、谷中にあったと思われる「有田貸本店」の貸本であったことがわかる。頁上部には横浜戸塚町5丁目149番地の「芳文堂天野書店」の印がおされている。あるいは「芳文堂天野書店」も貸本屋なのだろうか。いずれにしても、この本の「動き」をこうした印によって少し窺うことができる。書籍を静的なテキストとして、観察を始めることが一般的であろうが、(いろいろな意味合いにおいて)動的なテキストとして、「動き」の中で観察をすることも大事だろう。
 尾崎紅葉は慶應3年12月16日(1868年1月10日)生まれであるので、慶應3年1月5日(1867年2月9日)生まれの夏目漱石にほぼ1年遅れて生まれていることになる。夏目漱石の作品は国語の教科書にも載せられているが、現代日本語母語話者が読んで、わからない語が次々にでてくるという感じでもないだろう。しかし、尾崎紅葉となると、現代日本語では使わない語がかなり使われているという感じがするだろう。同じ時期にうまれていれば、同じような言語を共有していてもよさそうなものであるが、幕末明治初期は、それぞれの「言語生活」に隔たりがあったことが、こういうことでもよくわかる。
 例えば「離坐敷はなれ寝間ねまに、小屛風こびょうぶてゝ、枕頭まくらもとありあけたばこぼん。」(4頁)では、現代日本語母語話者には「有明」がすぐにはわからないだろう。『日本国語大辞典』第二版の見出し「ありあけ」をみると、4番目の語義として「夜明けまでともしておく灯火。ありあかし。また、それに用いる行灯。有明行灯」とある。〈くろうと・芸者〉という語義の「妖婦それしや」(5頁)などもすぐにはわかりにくそうである。「あるひ数寄屋すきやまちあたりの難有ありいか」(6頁)の「アリイ(難有)」はさらに「難度」がたかそうだ。
 下谷数寄屋町は町内に芸妓が多く住んでおり、隣接している湯島天神下同朋町の芸妓とともに数寄屋芸妓の名で知られていた。数寄屋芸妓は葭町とともに、柳橋、新橋につぐ二等に位していたという。
『日本国語大辞典』は見出し「ありい」を「「ありがとう」の省略「あり」をのばした言い方。威勢のいい商売でいう」と説明している。漢字列「難有」は「アリガタイ・アリガトウ」にあてることがあるので、「アリイ」が「アリガタイ・アリガトウ」の省略形であることはいい。しかし「威勢のいい商売」はここにはあてはまりそうもない。そして『日本国語大辞典』の見出し「ありいす」は「遊里語。「あります」の変化した語。「ある」の丁寧表現。ありんす」と説明されている。あわせて考えると、芸妓のことばとして「アリガトウ」の省略形「アリイ」が使われていたと考えるのは一案かもしれない。そうだとすると、『日本国語大辞典』の見出し「ありい」の語義は「威勢のいい商売や芸妓が使った」ということになりそうだ。こういう気づきも楽しい。
(※レトロスペクティブ…回顧・振り返り)
2年半にわたり、春陽堂が刊行したさまざまな名著を日本語の観点からご紹介してきました。同連載は今回が最終回です。ご愛読ありがとうございました。連載バックナンバーは引き続きご覧になれます。
(春陽堂書店編集部)

『ことばのみがきかた 短詩に学ぶ日本語入門』(春陽堂ライブラリー3)今野真二・著
[短いことばで、「伝えたいこと」は表現できる]
曖昧な「ふわふわ言葉」では、相手に正確な情報を伝えることはできない。「ことがら」・「感情」という「情報」を伝えるために、言葉を整え、思考を整える術を学ぶ。

この記事を書いた人
今野 真二(こんの・しんじ)
1958年、神奈川県生まれ。清泉女子大学教授。
著書に『仮名表記論攷』(清文堂出版、第30回金田一京助博士記念賞受賞)、『振仮名の歴史』(岩波現代文庫)、『図説 日本の文字』(河出書房新社)、『『日本国語大辞典』をよむ』(三省堂)、『教科書では教えてくれない ゆかいな日本語』(河出文庫)、『日日是日本語 日本語学者の日本語日記』(岩波書店)、『『広辞苑』をよむ』(岩波新書)など。