【第83回】


荷風『濹東綺譚』は「蚊」だらけ
 データとして示すことはできないが、都会から蚊の数は減っているのではないだろうか。駅のホームで電車を待っていたり、居酒屋でビールを飲んだり、また家のなかで野球のナイターを観たりする時、よく「ぷーん」と音が近づいてきて、油断するとチクリと刺される経験がかつてはたくさんあった。気のせいか、それがほとんどなくなったようだ。蚊よけの線香や電子マットを使った記憶もずっと途絶えている。
 夏の風物詩。蚊が出る時期になるとテレビで蚊取り線香や殺虫剤のCMがひんぱんに流れていた。「金鳥の夏、日本の夏」(美空ひばり)、「ハエハエカカカ、キンチョール」(郷ひろみ)、「夏は金鳥マットです」(掛布雅之)と、いくつも流行語になるような印象的なフレーズが思い浮かぶ。いや、懐かしんでいるのではない。蚊なんて、いなければいない方がいい。これは「蚊」に話をもっていくための枕だが、長くなってしまった。
 私が触れたいのは永井荷風『濹東綺譚ぼくとうきたん』で、7~8年ごとぐらいに読み返したくなる。失われた私娼窟の街「玉の井」(現・墨田区東向島)の路地の入り組んだラビリンスへ、さまよい入りたいと思うのだ。昭和12年に東京(大阪)朝日新聞に連載され、同年岩波書店から刊行された。木村荘八の挿絵が素晴らしく、半分くらいはこの絵を見たくて読み返すのだ。
 しかし、ここで踏み込んだ作品論がしたいわけではない。有名な作品なので紹介もいいでしょう。最近、読み返して印象に残ったのが作中に何度も現れる「蚊」の話であった。
 小説家の大江ただすがある年、ひんぱんに玉の井を訪れる。最寄りの東武線の現「東向島」駅はかつて「玉の井」駅と呼ばれた(小説には前年廃止されたという京成電気軌道白鬚しらひげ線「京成玉ノ井駅」の記述も)。駅から東、狭い路地が入り組んだ一帯(これは今でもそう)に私娼窟がある。雨の日、傘の中に飛び込んできた娼婦がお雪だった。梅雨明け時から秋の彼岸までの短い交情が、情緒あふれる名文でつづられる。何度読んでもこの点で飽きないのだ。元は田んぼだった郊外の町に、大正の震災で浅草などから盛り場が移り、新開地として発展したのが「玉の井」である。
「一体この盛場では、組合の規則で女が窓に坐る午後四時から蓄音機やラディオを禁じ、また三味線をも弾かせないという事で。雨のしとしとと降る晩など、ふけるにつれて、ちょいとちょいとの声も途絶えがちになると、家の内外に群り鳴く蚊の声が耳立って、いかにも場末の裏町らしい侘しさが感じられて来る」
「群り鳴く蚊の声」という表現がすごい。少し後には「溝の蚊の唸る声」ともある。蚊の発生源は「水」にあり、水たまりや溝を流れる水はかっこうの養殖場だった。お雪のいる家は溝際にあり、まともに蚊の標的となる。だから部屋には蚊帳が吊っていて、木村荘八の挿絵では蚊帳の中にいるお雪が、そっと蚊帳の裾をまくって這い出ようとする姿と外でそれを待つ大江の場面が描かれている。光と影のコントラスト、垂れ下がり波を打つ蚊帳の描写がみごとだ。
 さらに蚊の攻撃について「いつもお雪が店口で焚く蚊遣かやりこうも、今夜は一度もともされなかったと見え、家中にわめく蚊の群は顔を刺すのみならず、口の中へも飛込もうとする(後略)」などと書かれている。「『今年はどこもひどい蚊ですよ。暑さも格別ですがね。』と言うと/『そうですか。ここはもともと埋地で、碌に地揚をしないんだから』」とは娼家の主人との会話だ。このあとも蚊に悩まされる記述は繰り返されるのだ。
 こうした蚊の乱舞が止む秋口に大江が玉の井通いを止めるという設定も面白い。蚊の音や攻勢が情事のアクセントになっていたのではないか、とさえ思われる。
 そこで思い出されるのが落語家・古今亭志ん生の貧乏話。業平橋の借家での「なめくじ」は有名だが、蚊の話も出てくる。引っ越したその晩、浅草の「金車きんしゃ亭」で仕事をして帰ってくる。「金車亭」の名前は小津安二郎『東京物語』にも出てきます。名著『びんぼう自慢』(立風書房、のちちくま文庫)にはこう書かれている。
「おどろきましたね。あたしんとこ一軒だけが灯が点ってるから、蚊の野郎が、そこんとこにだけ集まって、運動会をやってやがる。
「おう、いま、けえったよ……」
 っていおうと思ったら、途端に蚊が二、三十も口の中へとび込んで来やがって、モノがいえやしない。 かかァなんぞ、破れ蚊帳の中で、腰巻一つになって、ベタンとすわってやがる」。
 体験談がそのまま落語になっているのが面白い。業平橋は今でこそ「スカイツリー」のそびえ建つ観光名所だが、江戸時代初期には一面の農地で湿地帯であった。明暦3年(1657)の振袖火事を契機に埋め立てられ宅地化したようだ。それでも『濹東綺譚』で娼家の主人が言うように「碌に地揚をしない」、土砂だけを投入した土地なら、なめくじや蚊の温床となったのだろう。
 蚊づくしの話を書いていたら、なんだか耳元で「ぷーん」と音がしてきたような……。

飯尾和樹『ずん喫茶』
 お笑い芸人の飯尾和樹を私がちゃんと認識したのはこの2,3年のことではないか。1968年生まれ、2000年に「ずん」というコンビを組んでデビューしている。今年54歳だからずいぶん遅咲きである。
 眼鏡をかけた公務員ふうの地味な顔立ちで、派手なリアクションや一発芸があるわけではない(と思う)。レギュラー番組のMCを担当したというような記憶もなく、いずれ消えていく芸人の一人かと思っていた。認識を改めたのがピンの番組『飯尾和樹のずん喫茶』(BSテレ東)だった。東京で生き残る純喫茶を毎回2軒探訪するのだが、くせになりそうな面白さだ。番組タイトルは「純喫茶」とコンビ名の「ずん」をかけているわけです(「そんなのすぐわかるよ」「すいません」)。
 店の外観や店名、内装の描写などがじつに的確なのは、不遇の時代に数限りなく街歩き番組のレポをしていた経験値の勝利であろう。突っ込みどころがほとんど百発百中である。それに加えて、店主たちとのやり取りがさりげなく、しつこくなく、急所をつかんでいる。
 2022年6月3日放送分は「日本橋」。高島屋近くの「羅苧豆」を訪ねる。これで「ローズ」と読ませるのだが難読で、まず店名の由来から飯尾は取材を始める。ちなみに「苧」は「芋」と間違えそうだが、「お」と読む。私の知り合いに「間苧まおたに」さんという姓の人がいたので私はわかった。
 エプロン、マスク姿の老夫婦が店主。店の成り立ちなどを聞いていると、老妻の方が次々と店の歴史を語る古いアルバムを出してきて見せる。写真数枚なら対応できるが、カメラが回っているところで、このアルバムを何冊もというのは正直、困った展開である。そこをうまくクリアして、飯尾が渡されたメニューにこう言った。
「(中を)開けたら、お二人の出会いの頃の写真が出てくるんじゃないでしょうね」
 みごとなリアクションである。視聴者が感じる空気を、まさにドンピシャの言語表現で決めて、しかも店主夫婦を傷つけることはない。私は難所をうまくクリアしたなあと感心した。
 続いて同じ日本橋の「寿々すず」へ。木枠の窓を持つレトロな店舗で、そのことを指摘しつつ、飯尾は入口でまず脇へ捌ける。これは、店内に立つ女性店主をカメラがうまく撮れるよう配慮したのだ。さすがロケ芸人。何かの番組でロケでのノウハウを披歴している飯尾を見たが、テレビのある飲食店では「すいません、テレビの音、小さくするか消してもらっていいですか」と言う。なるほどなあ、とこの時も感心した覚えがある。
「寿々」は初代店主が芸者時代の源氏名だという。それを客だった現・店主が受け継いだ。そんな基本情報もきっちり押さえ、おすすめのメニューで「バナナジュース」が出るとすかさず「(ぼくが)7歳だったら10杯は飲んでますね」と。これも笑いの反射神経のよさをうかがわせるコメントだった。あくまで優しく、程よい温かみを感じさせる芸人である。
 かつて出川哲朗が、『ボクらの時代』(フジテレビ)という番組で、私生活でも仲のいいウド鈴木、飯尾和樹としゃべっていた。そこで仲間内の評価は高いのに、なかなか頭角を現わせなかった飯尾についてこのように言っていた。
「お笑いだけは事務所のでかさとか関係なく、本当に面白かったら絶対に、時間はかかるかもしれないけど絶対に売れて、絶対に出てくるじゃない。そこだけが唯一、本当に芸能界で一番ピュアなところじゃない」
 言葉足らずが売りのような出川による見事な芸人評であった。

(写真とイラストは全て筆者撮影、作)

『ドク・ホリディが暗誦するハムレット オカタケのお気軽ライフ』(春陽堂書店)岡崎武志・著
書評家・古本ライターの岡崎武志さん新作エッセイ! 古本屋めぐりや散歩、古い映画の鑑賞、ライターの仕事……さまざまな出来事を通じて感じた書評家・古本ライターのオカタケさんの日々がエッセイになりました。

この記事を書いた人
岡崎 武志(おかざき・たけし)
1957年、大阪生まれ。書評家・古本ライター。立命館大学卒業後、高校の国語講師を経て上京。出版社勤務の後、フリーライターとなる。書評を中心に各紙誌に執筆。「文庫王」「均一小僧」「神保町系ライター」などの異名でも知られ著書多数。Blog「はてなダイアリー」の「オカタケの日記」はほぼ毎日更新中。