【第86回】


西荻「西荻珈琲」
 中央線「西荻窪」駅周辺にある、席で紙巻き煙草の吸える喫茶店紹介の第2弾。駅南口を出てすぐ、神明通りのマンションの1階「西荻珈琲」は貴重な喫煙可喫茶。喫煙者の編集者と打ち合わせがあり、ここを指定したら、店になかなか現れず携帯に着信があった。「どうしたの?」と聞くと「店が見つからないんです」と哀れな声が返ってきた。
 聞くと北口にいるという。「いや、南口だよ」と道順を説明すると、携帯で再検索したらしく「ああ、分かりました」と10分ほどで店に現れた。
 なんでそんなことになったのか。じつは、「西荻珈琲」はかつて北口にあった。それが南口へ移転したのである。そんなに前の話ではない。ところが、情報として旧店舗が検索に引っかかって、それで編集者が間違えたのだ。
 その後も一人で何度かこの店を利用した。旧店舗では名物といっていい元気な女性店主がきりもりしていた(と、いくつかのコメントで知る)。マンションの中に組み込まれた新店舗は、けっこうなお年の男性2人が立ち働いている。一番奥の席に座ったら、店の前の舗道に立つ大きな木が葉を茂らせているのが正面に見える。これがなかなか落ち着くんですよね。
 年配客が多く、ほとんどが常連で2人の老店員に挨拶し、言葉を交わしている。「いやあ、暑いねえ」「ほんと、気をつけてください」というような何気ない会話。だが、若者に占拠されたチェーンのカフェでは、こういう空気は生まれない。そしてこの「空気」が町を作る。ブレンドコーヒーを注文したが、丁寧に淹れたとわかるおいしさであった。
 私より後から来た老齢の男性も常連。「これから〇〇まで行くんだよ。会合があって」と神奈川県の某都市の名を言う。言われても返答のしようのないことだが、「そうですか、そりゃ大変だ」と言ってもらえるだけで気が休まる。注文したのがメロンソーダというのが意外であった。先入観ではアイスコーヒーだ。メニューを見るとたしかにある。常連さんはなおも話し続ける。家のクーラーが不調で、図書館や映画館、ほか冷房の効いた店をはしごして日中の暑さをしのいでいるとのことであった。この男性、緑色の涼し気なソーダを飲み干すと「じゃあ」と言って出ていった。店での滞在は5分か10分。かっこいい。
 私は珍しく本も開かず、コーヒーを飲み干しながら煙草を2本吸い、店を後にした。
〈西荻珈琲:東京都杉並区西荻南3丁目11−1 グリーンコート西荻窪 金曜定休〉


面倒な男だな、久保田万太郎
「湯豆腐やいのちのはてのうすあかり」
 久保田万太郎(1889~1963)の代表句であり、五七五の日本語組み合わせによる最高の達成の一つ。詩情と凄味と哀れが共存する。戯曲「大寺おおでら学校」も、小説「末枯うらがれ」も書かなくて、文学座創設のメンバーにならなくても、この句のみで日本文学史に名が刻まれるだろう。文化勲章受章、芸術院会員と文壇的地位も頂点を極めたと言っていい。
 この句の要はなんといっても「湯豆腐」で、ほかの4文字の食べ物を置き換えてみればよくわかる。とんかつ、焼き鳥、ラーメン、はんぺんなど、とたんに句の求心力が失せる。「とんかつやソースかけすぎ秋の暮れ」とか……。冬の寒い夜、湯豆腐と対しながらついついこの句を頭に思い浮かべる人は大勢いると思う。
 この句はいかにしてできたか。大村彦次郎『万太郎 松太郎 正太郎 東京生まれの文人たち』(筑摩書房)にくわしくその舞台裏と生涯が描かれている。順に久保田万太郎、川口松太郎、池波正太郎はいずれも大衆文学と演劇に大きく寄与した文人だが、東京下町の生まれという共通点があった。ここは万太郎一人に絞って紹介する。
 同著の「久保田万太郎」の章によれば、簡単な略歴では現れない複雑な相貌を持つ男であった。「万太郎はこの世に七十年余生き、世間的には功成り名遂げ、最後は文化勲章の栄誉まで受けたが、その私生活についていえば、およそ幸せというものからは程遠い日常を送った」と著者は書く。具体的には生家の没落、最初の妻が自殺、ひとり息子の早世などの不幸が続き、「女性問題でも散々に手を焼き、軋轢あつれきも生じた」という。
 しかし、昭和の作家には多かれ少なかれ同様の「不幸」を背負い、それを乗り越えることで創作活動の円熟を見た。万太郎がほかと違ったのは、両親を中心とした血縁や別れた愛人に対して徹底した冷酷、不人情を貫き通したことだ。一例を挙げると「両親の臨終にも葬送にも馳けつけられる距離にいながら、いずれも姿を見せず、立ち会わなかった」。家業を継いだ弟が零落し、兄・万太郎の家を訪ねた時も門前払いを食らわせた。結核で闘病し36歳で亡くなった実子に対しても「入院先へは一度も見舞いに行か」ず、療養費も友人たちが援助したのに父親たる万太郎は無視をした。
 いささか不気味にも思えるほどの「冷酷、不人情」だ。小説や戯曲では「下町の義理や人情が情緒纏綿と描かれた」にも関わらず……である。そのほか、派手な浮気や酒席での乱れなど行状の悪さが次々と暴露されている。戸板康二、安藤鶴夫、川口松太郎ほか多くの弟子に囲まれる一方で、佐藤春夫始め、彼をよしとしない人も多かったのである。
「万太郎は肌合いの違う連中からは蔭で、〈久保万〉と言われた。愛称というより、どこか蔑称に近い悪意が含まれていた」
 そんな複雑で不人情な人間から、人の心の奥深く分け入った戯曲や小説、俳句が生み出されるのが「文学」の不思議である。乱れた女性関係を重ねながら、おそらく万太郎が生涯にこの一人と愛した女性が愛人の三隅一子だった。脳卒中で倒れ、手術が施されるも8日後に逝った。その間、万太郎は「病院の隣室に泊まって、安眠することなく」付き添ったというのだ。実の息子には見舞いにも行かなかったのとは正反対の態度だった。
 通夜の席で泣き崩れ、10日後に開かれた句会で作った一句がこれだった。
「湯豆腐やいのちのはてのうすあかり」
 悲しみの底からしぼりだした絶唱、と言っていいだろう。肉体は消え、同時代を生きた人々の記憶も途絶えて、文人には作品だけが残る。生前の不行跡や人から買った恨みも消えて、作品は許されて人の心を慰める。

恵比寿、武藤良子「百椿図」展へ
 この日、「サンデー毎日」編集部にて書評用の本選びを終えて、まだ時間がたっぷりあるので恵比寿へ向かう。「ギャラリーまぁる(malle)」で開かれている武藤良子りょうこ「百椿図」展初日を見に行こうと考えたのだ。山手線「恵比寿」はあまり降りない駅。東京で来て30余年になるが、せいぜい10回ぐらいか。西口駅前すぐのところに「戸川書店」という、神保町にあるような硬い品揃えの古書店があり、最初はそれで降りたのだろうと思う。
 まあ、そんなわけで縁遠い街だったが、久しぶりにでかけてみた。東口へ出て、六差路の交差点へ。メインの広い道路から一本東へ、弧を描くように細い道が切れ込んでいてここを進む。まったく足を踏み入れたことのない路地だ。ちょっとわくわくする。もらったDMの案内はがきにある地図は簡略化されていて、途中、少し迷ったが古いビルの狭い階段を上がっていく。とても画廊がありそうにはない雑居ビルである。上ってすぐの部屋に「まぁる」と墨文字でかまぼこ板のような表札が出ていた。これも珍しい。

 私立探偵か小さな会計事務所が入っていたような部屋を改装、壁を白塗りして画廊に仕立てたようだ。初日だから武藤さんがいると思ったが、出てきた女性の画廊主によれば夕方からだという。絵を見させてもらう。いつもながら大胆で闊達な線と、発色のいいパステルで色彩構成がされている。いずれも画題は「椿」。しかしその表現手法は多種である。青を基調として鮮やかな色彩が、花を捉えようというより空間を埋める手段として分割されているようだ。とにかく目に飛び込んでくる印象が非常に強い。そして楽しい。
 楽しい絵であることは武藤良子にとって大事なことではないだろうか。手が動くままに確信をもって線が踊るように引かれていく。その点はクレーのようだ。何度か見直した後、女性画廊主と言葉を交わす。「まぁる(malle)はフランス語で「旅行カバン」のことらしい。少し前まで、目の前の工事中のビルで長いこと画廊を開いていたが、再開発でこちらへ移られた由。おもしろい部屋だとほめると、入口の上にある小さな木の箱を指さされた。「なんでしょう、これ?」「開けてみてください」と促され、蓋を開けるとブレーカーが入っていた。これもけっこうな年代物だ。「画廊にあると、これも現代美術のオブジェみたいですね」と言ったら笑っていた。
 絵を見にいくというだけで少し気持ちが昂り、次に目が絵と対することで生動する。不思議なもので、少し疲れた。どこかでコーヒーを飲んで帰ろう。
(写真とイラストは全て筆者撮影、作)

『ドク・ホリディが暗誦するハムレット オカタケのお気軽ライフ』(春陽堂書店)岡崎武志・著
書評家・古本ライターの岡崎武志さん新作エッセイ! 古本屋めぐりや散歩、古い映画の鑑賞、ライターの仕事……さまざまな出来事を通じて感じた書評家・古本ライターのオカタケさんの日々がエッセイになりました。

この記事を書いた人
岡崎 武志(おかざき・たけし)
1957年、大阪生まれ。書評家・古本ライター。立命館大学卒業後、高校の国語講師を経て上京。出版社勤務の後、フリーライターとなる。書評を中心に各紙誌に執筆。「文庫王」「均一小僧」「神保町系ライター」などの異名でも知られ著書多数。Blog「はてなダイアリー」の「オカタケの日記」はほぼ毎日更新中。