岡崎 武志
第31回 『剣客商売』と江戸期の警察機能について
『剣客商売』について書くのはこれで二度目になるが、どうしても触れておきたいことがあり、再び筆を執る。くり返しになるが、まずは概略から。池波正太郎があっぱれなのは、『鬼平犯科帳』『剣客商売』『仕掛人・藤枝梅安』といまだにドラマや映画で需要が途切れぬシリーズを作り、しかもこれらはある時期、別々の媒体で並行して連載されたことだ。1923年に生まれ1990年没と今思えば早い死だが、もしその後書く仕事を止めて100歳まで生きたとしても、印税や放映権料その他で憂いなく暮らせたと思う。
100歳は難しいとしても、設定として90歳まで生きたのが『剣客商売』の秋山小兵衛だ(作中に未来のこととしてそう記されている)。ドラマでは藤田まことが長らく扮し人気を得た。私は未読であったが、60代から『仕掛人・藤枝梅安』にハマり『剣客商売』にも手を伸ばした。シリーズ16作に番外編として2作を加え、新潮文庫に収録されている。最初2作は本文文字を大きくした「改版」で読んだ。続いて読みたいと思っていたところ、今年春の小平市公民館での古本バザー(単行本50円、文庫30円)に、旧版が一挙放出されていて、すでに所持している巻がどれか分からず、全部をむんずとつかみ取った。それでも540円だ。いま新刊で同シリーズを1冊買うより安い。
これでしばらく読むものに困らないと、枕元に並べ、毎晩ちびちびと寝酒をやるように読みすすめた。途中、少し休憩が入り、現在シリーズ第10作まで読了。なにしろ18冊を一度に買ったので、読んでも読んでもまだ残りがある。楽しみは続くわけで、これも読書の喜びの一つだろう。
『剣客商売』の秋山小兵衛はかつて剣道場の主だったが、今は息子の大治郎に譲って隠居の身。宝永7年(1778)に59歳で、1巻の途中で年が改まり60歳となる。時代小説の主人公としてはやや老齢。ただし心身達者で剣の達人である。大川(隅田川)河畔の鐘ヶ淵に百姓家のような隠宅を構える。妻はなく、女中としておはるという19の娘を下女として雇うが、小兵衛はなんとこの孫娘のような女に手をつけてしまう。仲睦まじく暮らし、若いおはるが夜のお務めをせがみ、それに応える小兵衛。むむむ、おぬしできるな。
大治郎の道場は、第1巻の記述によれば、浅草のはずれ、真崎稲荷明神社に近い木立の中とある。隅田川沿いにその名を目で追うが見当たらず、少し調べると、白髭橋を渡った西側、「石浜神社」のあたりと分かった。じつは石浜神社内に、現在「真先(崎)稲荷」が鎮座するという。現・南千住3丁目。小兵衛は息子を訪ねるのに、おはるに小舟を操らせ、大川を下る。これがまたいい。若い娘が漕ぐ舟に腰を落ち着け、のんびりと移動していく様は、一幅の絵のようだ。
もちろん、池波の小説だから、「食」のシーンも多く、大事に取り扱われる。自然の食材をうまく生かした料理は、ときに料理法も記され、いかにもうまそうである。小兵衛や大治郎は、たびたび難事件やトラブルに巻き込まれ、剣の力でそれを解決していく。その颯爽とした剣さばきは、同時に「血」や「死」を生むわけで、「食」の話や思いがけず色っぽい老人・小兵衛の姿がその生臭さを相殺する。読後感はいたってさわやかだ。
また、月刊誌の進行、春秋や年月の移り変わりを物語に反映させ、『剣客商売』の世界も移ろいを見せる。1年経てば、人物たちがそれぞれ年を取り、小兵衛の息子・大治郎はやがて美貌の女武芸者・三冬と結婚し、子を授かる。というふうに、読者は自分が年を重ねることと、物語世界の時間の変化を重ねて読む。つまり、秋山小兵衛を中心としたホームドラマ的要素が盛り込まれているわけで、池波正太郎の作品としては珍しい趣向だ。
岡っ引きに下っ引き
さまざまに降りかかる物騒な事件を、小兵衛一人で解決できるわけではない。追跡、探査、聞き込みなどを手伝うのが四谷伝馬町の御用聞き・弥七。もと秋山道場の門下生で、いつも小兵衛の手と足となって働く。同作の重要人物の一人としてほぼ毎回登場する。また、弥七のさらに下部組織として細々とした用を担うのが、例えば傘屋の徳次郎ほか数名。
ところで気になるのが彼らの収入だ。
「御用聞きは町奉行所の手先となってはたらくものだが、どこまでも下部組織」で「級金は出ない」とある。お上から給金が出るのは、彼らの一つ上となる同心まで。それなのに彼らは、張込みのため昼夜を費やし、ときに危険な目にも遭うのだ。わりに合わないではないか。私ならまっぴらである。弥七の場合は女房に料理店を出させ、下っ引きも傘屋ほか別に本業を持ち、経済的心配のないことが基本となる。小兵衛の場合、私用で彼らを使う場合、必ず金包みを渡す。これは小兵衛が「剣客」を商売として礼金をもらうのを、流用しているわけである。
そうした余裕のない下部組織の者たちはどうするか。「お上の風を吹かせ、陰にまわっては悪辣なまねをする御用聞きが多い」と『剣客商売』にある。やくざでいう「みかじめ料」や、袖の下を強要する者もいたということだ。これは一概には責められまい。紙幅の関係でくわしく触れられないが、阿部善雄『目明し金十郎の生涯』(中公新書)の帯文に「やくざとの二足のわらじをはいた目明し」が金十郎だった。松平氏守山藩では、「やくざの群れが領内を横行するのを取り締まるため、やくざ社会の顔役を目明しに任命して、警察権の一部を付与したことは、『毒をもって毒を制す』といった諺があるように、支配者の知恵だった」とある。弥七の履歴はきれいなものだったが、裏社会に通じた者が現実の犯罪に対処するのに有利だったというのは納得がいく。
ついでに、この流れに乗ってかねてからの疑問を掲げておく。それは、江戸から明治(少し広げて大正から昭和初期)を題材とする古典落語は、殿様から武士、商人から職人、盗人と幅広い階層の人々を扱うが、私の知る限り、同心や目明しが登場する噺についてちょっと思い当たらない。「次の御用日」「鹿政談」「三方一両損」ほか、奉行やお白州での吟味は繰り返し描かれるが、なぜだろう。
一つ思い当たるのは、『剣客商売』が扱う殺人や押し込み強盗など、凶悪な犯罪が落語世界では敬遠されるということだ。これは落語という笑芸を考えるとき、重要な要件ではないか。秋山小兵衛は落語世界では出番がない。あと一つ、書きながら気づいたが、落語には「崇徳院」「井戸の茶碗」など、人探しが重要なプロットとなる演目があるのに、金やコネに頼り、大家の主人や武士が「ここは親分さんにお願いして探してもらおう」とはならない。目明しが探索し、すぐ見つかったのではたしかに落語にならない。
これは『剣客商売』を愛読することからふくらんだ、意外な発見であった。
(写真は全て筆者撮影)
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┃この記事を書いた人
岡崎 武志(おかざき・たけし)
1957年、大阪生まれ。書評家・古本ライター。立命館大学卒業後、高校の国語講師を経て上京。出版社勤務の後、フリーライターとなる。書評を中心に各紙誌に執筆。「文庫王」「均一小僧」「神保町系ライター」などの異名でも知られ著書多数。
Blog「はてなダイアリー」の「オカタケの日記」はほぼ毎日更新中。
2023年春、YouTubeチャンネル「岡崎武志OKATAKEの放課後の雑談チャンネル」開設。
岡崎 武志(おかざき・たけし)
1957年、大阪生まれ。書評家・古本ライター。立命館大学卒業後、高校の国語講師を経て上京。出版社勤務の後、フリーライターとなる。書評を中心に各紙誌に執筆。「文庫王」「均一小僧」「神保町系ライター」などの異名でも知られ著書多数。
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