岡崎 武志

第32回 富岡多惠子「子供芝居」を読む

 先に本連載で、山崎豊子『花のれん』2回にわたって取り上げたとき、触れようと思いながら字数の関係でパスした作品がある。富岡多惠子(当時は多恵子と表記)の第2短編集『仕かけのある静物』(中公文庫)所収の「子供芝居」だ(初出は「海」1971年11月号)。吉本せいをモデルにした女性興行主・多加が、近隣の寄席とともに初代通天閣を買い取るシーンがある。
「道頓堀、千日前より、さらにくだけたこの新世界には、仲見世も出て、小屋がけの芝居やサーカスで賑わっていたが、ここの名物は、何といっても、新世界の、玄関口にそびえている通天閣である。鉄骨で組んだ塔の上に饅頭のような屋根を持った望楼があり、エレベーターで昇降できるようになっている」(「花のれん」)
 じつは「子供芝居」こそ、この演劇空間「新世界」を舞台とする小説だった。大正期、「キン」という9歳ながら役者の仕事で一家を支える少女が主人公。純文学作品としてはきわめて珍しい設定だ。富岡は1935年大阪市生まれ。さまざまな人たちの上京物語『ここが私の東京』(扶桑社、現在ちくま文庫)で富岡を取り上げたとき、くわしく調べ、作品も読んだのだが、その時「子供芝居」に触れ印象に残っていたのだ。富岡は1958年に大阪女子大を卒業し、同年『返禮』という初めての詩集でH氏賞を受賞。大阪の詩を書く若い女性だったのが、中央詩壇に名を知られ、まだ無名だった画家・池田満寿夫と出会ったことで運命が変転していく。1960年に上京し、池田と同棲を始める。『仕かけのある静物』所収の表題作は、池田と同棲を始めた頃の貧しい暮らしを「カネコ」と「ジロキチ」という名前を与えて描いた作品だ。
 さて「子供芝居」だが、「キンは九ッだったが、いつも大人の下駄をはいていた。夜中の二時ごろ、その下駄を鳴らしながら毎日ひとりでキンは帰ってくるのである」という文章で始まる。9歳の少女が大人の下駄をはき、深夜に一人で帰宅する。意表をつく出だしだ。
 おいおい分かるが、キンは子供芝居の役者で一家の働き頭、学校は3年で中退していた。現在、労働基準法で児童の労働は原則禁止されているが、芸能界では子役や子供がはびこっているし、大正期、商店の丁稚や飲食店など、子供は重要な働き手だった。
 長屋の路地の一番奥にあるのがキンの家。すでに両親と5歳の弟は眠っている。しかし、半月で演目が変わる子供芝居のセリフを覚えるために、キンは眠るわけにいかない。壁に大入り袋が一面に貼られていて、これを溜めて着物を買うのがキンの夢だった。しかし銅貨の多い袋は底が鋏で切られていた。生活費に使われたのだ。子供に働かせ、給金を受け取りながら、余禄であるその夢さえ食いつぶすのがキンの一家だった。父親に大きな借金があることもわかってくる。
 さりながら富岡は悲惨を強調したりはしない。あくまで現実に生きる大阪の庶民の姿を生き生きと映し出すことを主眼とする。「毎日、昼は芝居に夜は稽古で、思い切りねむることも近所の子と遊ぶこともかなわない」が、なによりもキンは芝居が好きだった。舞や三味線の稽古にも通った。一個の人間として独立している。同様に大人の下駄をはいて、家業のホルモン焼き屋をきりもりする『じゃりン子チエ』(はるき悦巳)のチエちゃんも、働いてお金を稼ぐのが好きな少女だった。小説とマンガ、大正期と昭和後期と両者に違いはあれど、同じ地平にあると私は考えている。
人名のカタカナ表記
 キンの職場となる「新世界パーク」(正式には「ルナパーク」)は演劇、遊園地、カフェなどを集合させた一大歓楽街であった(1923年には閉園)。「子供芝居」ではこう書かれる。
「桜の花が散りはじめて、名ごりの花見をしようとくり出すひとで新世界パークの中はいつもよりにぎわっていた。パークの中は花見の名所というほどの花もなく、アメリカのコニーアイランドを真似てつくられたとかいう広い遊園地だから、花見の酒を飲むところではないのであるが、花がひとを誘うのか、ひとが花に誘われるのか、とにかく花というのはひとの出歩く口実になりやすいものだった」
 噴水のある音楽堂、エレキ仕掛けの人形のある不思議館、ノゾキの活動写真のある一銭館などがあった。頭の上にはできたばかりのロープウェイが行き来した。「キンにとっては、この広い新世界パークの入口を入った時から、毎日の芝居ははじまっていた」。ここより外の世界は遮断され、「どんなひとも、キンの芝居のなかへ入ってくるひとびとであった」。9歳にしてこのプロ根性、というよりキンにとってはこのルナパークこそ現実世界であった。芝居の成り立つ「ウソでかためた」内側でこそキンは生きた。「道具方や若いセンセのからかいのことばが、キンにはにぎやかな友だちであって、近所の女の子とのお人形ごっこは、あれはウソなのだ」とあるが、そのあたりの描き方が、小説家としてはまだ新人だった富岡多惠子だったが堂に入っている。もっと読み直され、評価されるべき作家ではないか。

 ところでもう一つ。富岡の小説の特色として挙げられるのが、登場人物の名のカタカナ表記である。「子供芝居」ではキンのほか、近所のおめかけさんはシズカさん。前に触れた「仕かけのある静物」の2人はカネコとジロキチ。このスタイルは、富岡の全作品をチェックしたわけではないが、後年の作も変わらない。たとえば「金(キン)」「静香(シズカ)」とした場合の何が違うか。漢字は意味を持ちすぎ、イメージを規定するだろう。となると一種の抽象化、であろうか。童話性を帯びる効果もあるかもしれない。
 高橋英夫の文芸時評『悦楽と探求』(小沢書店)で、『波うつ土地』を取り上げ、やはりこの問題に言及している。参考までに引用しておこう。
「作者はクルマ、ダンチ、コトバというように片カナ表記をよく使うが、人間もヒトである。ヒトは一方では人類学的表記であるが、富岡氏の意図的な相対化に基づく表記でもあって、つまり太古の縄文人と同様に、現代のヒトも赤土を掘り起して、その上に剝き出しに生きているのだという作者の眼がそこに感じられる」
 なるほど、こういうふうに言えばいいのかという見本である。

(写真は全て筆者撮影)

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この記事を書いた人
岡崎 武志(おかざき・たけし)
1957年、大阪生まれ。書評家・古本ライター。立命館大学卒業後、高校の国語講師を経て上京。出版社勤務の後、フリーライターとなる。書評を中心に各紙誌に執筆。「文庫王」「均一小僧」「神保町系ライター」などの異名でも知られ著書多数。
Blog「はてなダイアリー」の「オカタケの日記」はほぼ毎日更新中。
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