村井弦斎の『食道楽』は「報知新聞」に明治三十六年一月から十二月にかけて連載された小説だが、当時大変な人気を呼び、幸田露伴のような人さえもこれを意識していたことは、前に書いた通りである。
獅子文六も「議論」という文章で、この小説に触れている──
題名だけを見ると、誰か味覚を追求するエピキュリアンが色々美味しいものを食べる、あるいはこしらえる話を想像してしまうが、弦斎の本の内容はまったくそういうものではない。
著者の関心は個人でなく社会にある。
飲食の衛生・栄養・経済に関して大衆を啓蒙し、亭主族の料理屋通いをやめさせ、家庭料理の向上を奨励し、健康で蓄財に励む国民を育て、ひいては大日本帝国の富強に貢献しようという意図がある。
従って文学的な味わいを求めるべき作品ではない。小説の体裁は取っているが、筋は他愛ないものだ。
お登和さんという娘が、大食漢の大原という男と結婚することになる。お登和さんはもともと料理上手だが、さらに腕を磨かせるべく、兄の中川という男が料理の指南をする。
この中川は「文学雑誌の編輯に従事する人物」で、滅法博識だが、料理を芸術などとは思っていないから、魯山人が聞いたら卒倒しそうな台詞を吐く。たとえば、次の場面だ。
扱われるのは西洋料理が多く、その次が日本食だが、とくに前者は当時の一般読者にとって、見たことも聞いたこともない珍味佳肴だった。新聞でこれを読んだ御婦人方は、一方で実際に役立つ庖廚の知識を得ようと望み、一方で、憧れる西洋の夢に心を躍らせたのだろう。
『食道楽』は中国料理にも多少触れている。その際、作者が参考にしたのは、主に袁枚の『随園食単』だ。
たとえば、「春の巻」第三十四に、こういう箇所がある。
詩人としては性霊派といわれる流派の中心で、学者としては『四庫全書』の編纂者紀昀(1724—1805)と名声を分かった時の大文豪であるが、飲食に人一倍関心の強かった人で、晩年、『随園食単』という本を著した。
「食単」は中国語で献立を意味する。彼はどこかの家で美味しい物を御馳走されると、あとでお抱えの料理人を遣わし、調理法を聞いて来させた。そのようにして書きためた調理法を分類してまとめたのが、『随園食単』である。
しかし、袁枚は食いしん坊というよりも、味覚の審美家だった。ある時、人にこんな詩を作って聞かせたという。
平生品味似評詩。
別有酸鹹世不知。
第一要看香色好。
明珠仙露上盤時。
(大意──私がふだん味を品評するのは詩を批評するのに似ている。その世界には世人が知らない酸いと鹹いとがあるのだ。料理はまず香りが良く、色美しくなければならぬ。鉢に載せた時、あたかも明珠・仙露が載っているようでなければ。)
『食単』は単に調理法を記すにとどまらず、飲食に対する深い趣味と哲学を語る本として、本国はもとより近世日本の料理界にも少なからぬ影響を与えた。
この本を引用または紹介した日本の書物として、石井治兵衛 『日本料理法大全』(明治三十一年)、井上紅梅 『支那風俗』(大正十年)、潘鐘華 『支那料理法』(大正十一年)、大谷光瑞 『食』(昭和六年)、丸山彰造編 『支那料理の研究・その料理法の研究と随園食単』(昭和十三年)などがあり、『食道楽』もこの系譜に連なるものと言って良い。
驚いたことに、先年中里介山の『大菩薩峠』を読んでいたら、第二十五「みちりやの巻」に随園のことが出て来た。
この小説の重要な登場人物の一人、能登守・駒井甚三郎は、金椎という耳の聞こえぬ中国人の少年を使用人に使っている。
金椎は外国船に乗り込んでいたが、料理の腕があって船長や乗組員に喜ばれた。今は駒井のために日々の食事を作っている。
駒井は江戸へ書物を集めに行った際、「料理書とおぼしいものを二巻ばかり持ち来って、自分が感心して読んだ後に、それを金椎に与えると、金椎は喜んで、それを大きな紙に写し取って壁間に掲げ」(『大菩薩峠』10 ちくま文庫28頁)た。
その個所を引用すると──
「凡ソ物ニ先天アル事、人ニ資稟アルガ如シ。人ノ性下愚ナル者ハ、孔孟之ヲ教フト雖モ無益也。物ノ性良シカラズバ、易牙之ヲ烹ルト雖モ無味也……」
又曰く、
「大抵一席ノ佳味ハ司厨ノ功其六ニ居リ、買弁ノ功其四ニ居ル……」
又曰く、
「厨者ノ作料ハ婦人ノ衣服首飾ナリ。天姿アリ、塗抹ヲ善クスト雖モ、而モ敝衣襤褸ナラバ西子モ亦以テ容ヲ為シ難シ……」(前掲書31頁)
とうとう随園先生までも引っ張り出されたのである。
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文/南條 竹則(なんじょう・たけのり)
1958年生まれ。東京大学大学院英語英文学修士課程修了。作家、翻訳家。
『酒仙』で日本ファンタジーノベル大賞優秀賞を受賞。以後、幻想小説、温泉、食文化への関心が深く、著書も多い。主な著書に、小説『魔法探偵』、編訳書『英国怪談珠玉集』など多数。
絵/橋本 金夢(はしもと・きんむ)