南條 竹則
第41回 袁枚と『食道楽』
 村井弦斎の『食道楽』は「報知新聞」に明治三十六年一月から十二月にかけて連載された小説だが、当時大変な人気を呼び、幸田露伴のような人さえもこれを意識していたことは、前に書いた通りである。
 獅子文六も「議論」という文章で、この小説に触れている──

 日露戦争直前に、村井弦斎の『食道楽』という小説が書かれ、ブームを起したが、私の母や姉が夢中になって、読んでたのを、目撃してる。(『食味歳時記』中公文庫 118頁)
 ここに言う通り、『食道楽』は女性読者の心をつかんだベストセラーだった。
題名だけを見ると、誰か味覚を追求するエピキュリアンが色々美味しいものを食べる、あるいはこしらえる話を想像してしまうが、弦斎の本の内容はまったくそういうものではない。
 著者の関心は個人でなく社会にある。
 飲食の衛生・栄養・経済に関して大衆を啓蒙し、亭主族の料理屋通いをやめさせ、家庭料理の向上を奨励し、健康で蓄財に励む国民を育て、ひいては大日本帝国の富強に貢献しようという意図がある。
 従って文学的な味わいを求めるべき作品ではない。小説の体裁は取っているが、筋は他愛ないものだ。
 お登和とわさんという娘が、大食漢の大原という男と結婚することになる。お登和さんはもともと料理上手だが、さらに腕を磨かせるべく、兄の中川という男が料理の指南をする。
 この中川は「文学雑誌の編輯へんしゅうに従事する人物」で、滅法めっぽう博識だが、料理を芸術などとは思っていないから、魯山人が聞いたら卒倒しそうな台詞を吐く。たとえば、次の場面だ。
 お登和「(略)モーその位おりになりましたらあとは私が致しますから今度は鯛のお刺身を作って御覧遊ばせ」玉江嬢「ハイ作りましょう。お刺身ばかりはどうもまだむずかしくって上手に出来ません。私が作りますと羊羹のようになりまして少し手間取りますと身が崩れます。鯉や鯛の生作いきづくりはよほど手の冴えたものでなければ出来ませんね」と鯛の作り身に取りかかる。中川は熱心にそのさんよう打守うちまもり「しかし玉江さんお刺身は上手な人に薄く切られると肉の味が抜けて不味まずくなります。羊羹作りに限りますね。」(『食道楽』上 岩波文庫 333-334頁)
 こういうところを見ると、果たして美食文学というべきかどうかも疑わしいが、著者は「模範勝手」と言われた大隈重信邸の厨房に出入りを許されただけあって、作中に紹介される料理は六百数十種。家庭科の教科書としては桁外けたはずれなものだ。
 扱われるのは西洋料理が多く、その次が日本食だが、とくに前者は当時の一般読者にとって、見たことも聞いたこともない珍味佳肴かこうだった。新聞でこれを読んだ御婦人方は、一方で実際に役立つ庖廚ほうちゅうの知識を得ようと望み、一方で、憧れる西洋の夢に心を躍らせたのだろう。

『食道楽』は中国料理にも多少触れている。その際、作者が参考にしたのは、主に袁枚えんばいの『随園食単ずいえんしょくたん』だ。
 たとえば、「春の巻」第三十四に、こういう箇所がある。

 支那しな料理の原則たる五味の調和という事は誰にでも応用が出来て自然と化学的作用に適合しているね。即ち料理には必ず甘いとしおからいとのほかからいといと苦いという五の味が備わらねばならん。日本人の食物は多く二味か三味で成立っているが僕の家では注意して必ず五味を調和する。(『食道楽』上 106頁)
 ここに説かれる五味調和の説は、『食単』の「須知単(予備知識の部)」に述べられている。
且つ天下には元来五味(酸苦甘辛鹹)があるから、かんの一味でおしならしてはいけない。客が食い飽くと脾臓がくるしむものだ、だから辛辣をもってこれを興奮させねばならぬ。客が酒を多く飲めば胃の腑が疲れるものだ、だから酸甘をもってこれを覚醒させねばならぬ。(『随園食単』青木正児訳 岩波文庫 40頁)
「夏の巻」第百には随園の名が出て来る。
 支那の袁随園という人の料理法に一席の御馳走は料理人の力が六分で売物屋うりものやの力が四分だとしてあります。なるほどその位でしょう、(『食道楽』上 314頁)
売物屋うりものや」というのは不正確だが、これは「須知単」の次の箇所にっている。
「大抵一席の佳肴かこうは料理人の功が六分で、買出人の功が四分である。」(『随園食単』青木正児訳 岩波文庫 30頁)
 袁枚(1716—97)は杭州の生まれで、官僚となって諸方をめぐり、南京で長く知事をつとめた後、比較的早く引退した。彼が住んだ南京の屋敷を随園といい、「袁随園」という呼び名もここから来ている。
 詩人としては性霊派といわれる流派の中心で、学者としては『四庫全書』の編纂者紀昀きいん(1724—1805)と名声を分かった時の大文豪であるが、飲食に人一倍関心の強かった人で、晩年、『随園食単』という本をあらわした。
「食単」は中国語で献立を意味する。彼はどこかの家で美味しい物を御馳走されると、あとでお抱えの料理人をつかわし、調理法を聞いて来させた。そのようにして書きためた調理法を分類してまとめたのが、『随園食単』である。
 しかし、袁枚は食いしん坊というよりも、味覚の審美家だった。ある時、人にこんな詩を作って聞かせたという。

  平生品味似評詩。
  別有酸鹹世不知。
  第一要看香色好。
  明珠仙露上盤時。
(大意──私がふだん味を品評するのは詩を批評するのに似ている。その世界には世人が知らないいとしおからいとがあるのだ。料理はまず香りが良く、色美しくなければならぬ。鉢に載せた時、あたかも明珠・仙露が載っているようでなければ。)

『食単』は単に調理法を記すにとどまらず、飲食に対する深い趣味と哲学を語る本として、本国はもとより近世日本の料理界にも少なからぬ影響を与えた。
 この本を引用または紹介した日本の書物として、石井治兵衛 『日本料理法大全』(明治三十一年)、井上紅梅 『支那風俗』(大正十年)、潘鐘華はんしょうか 『支那料理法』(大正十一年)、大谷光瑞 『食』(昭和六年)、丸山彰造編 『支那料理の研究・その料理法の研究と随園食単』(昭和十三年)などがあり、『食道楽』もこの系譜に連なるものと言って良い。
 驚いたことに、先年中里介山の『大菩薩峠』を読んでいたら、第二十五「みちりやの巻」に随園のことが出て来た。
 この小説の重要な登場人物の一人、能登守・駒井甚三郎は、金椎きんついという耳の聞こえぬ中国人の少年を使用人に使っている。
 金椎は外国船に乗り込んでいたが、料理の腕があって船長や乗組員に喜ばれた。今は駒井のために日々の食事を作っている。
 駒井は江戸へ書物を集めに行った際、「料理書とおぼしいものを二巻ばかり持ち来って、自分が感心して読んだ後に、それを金椎に与えると、金椎は喜んで、それを大きな紙に写し取って壁間へきかんに掲げ」(『大菩薩峠』10 ちくま文庫28頁)た。
 その個所を引用すると──

 その壁間にかかぐるところ、支那料理法の憲法なる「随園食単ずいえんしたん」には何と書いてある。試みに田山白雲が圏点けんてんを付してあるところだけを読んで、仮名交り文に改めて見てもこうである、
 「およソ物ニ先天アル事、人ニ資稟しひんアルガ如シ。人ノ性下愚ナル者ハ、孔孟これヲ教フトいへどモ無益也。物ノ性よろシカラズバ、易牙えきが之ヲルト雖モ無味也……」
 又曰く、
 「大抵一席ノ佳味ハ司厨しちゅうノ功其六ニ居リ、買弁ノ功其四ニ居ル……」
 又曰く、
 「厨者ノ作料ハ婦人ノ衣服首飾ナリ。天姿アリ、塗抹ヲ善クスト雖モ、しか敝衣へいい襤褸らんるナラバ西子せいしまた以テかたちヲ為シ難シ……」(前掲書31頁)
 御存知の通り、『大菩薩峠』はニヒルな剣士・机竜之助の話として始まったが、約三十年にわたる連載の間に構想はますます膨らみ、人物は錯綜し、終わりの方へゆくと、作者は話をまとめることをほとんど放棄しているようだ。随想を述べ、蘊蓄うんちくを語ってとめどない。
 とうとう随園先生までも引っ張り出されたのである。


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この記事を書いた人
文/南條 竹則(なんじょう・たけのり)
1958年生まれ。東京大学大学院英語英文学修士課程修了。作家、翻訳家。
『酒仙』で日本ファンタジーノベル大賞優秀賞を受賞。以後、幻想小説、温泉、食文化への関心が深く、著書も多い。主な著書に、小説『魔法探偵』、編訳書『英国怪談珠玉集』など多数。

絵/橋本 金夢(はしもと・きんむ)