岡崎 武志
第34回 夢さりし後の荒野
スタインベックの長編『怒りの葡萄』を大久保康雄訳の上下巻で読んだ。前回は故郷を追われたジョード一家がルート66を西進して、カリフォルニアにたどり着いたあたりまでを紹介した。一つのことに関心が集中すれば、その間、新しい窓を開けたように別の世界が広がる。今回はスタインベックとアメリカ文学だ。しばらくこの新しい窓を通してものを見ることになる。アメリカ文学研究者で翻訳家の志賀勝『アメリカ現代作家』(研究社)もそんなわけで古本屋の棚から抜き出した。昭和33年の刊で、私が買ったのは昭和43年の6刷。クロース装ハードカバーで本文は横組み。おや? と思ったのは、表扉裏に某大学図書館の蔵書印、後ろ見返しに「貸出期間票」と図書カード入りのポケットがついていたことだ。出発は女学校だった同学園は現在もあり、創立100年近い名門のようだ。この本が出た昭和43年は女子学生のみ。ひょっとして図書カードの氏名欄に、直筆の女の子の名前が刻まれていないかと期待したが、記名はなし。とうとう一度も借り出されず廃棄処分になったようだ。だから50年以上前の本だが、状態は良好。
とにかく、本書にはヘミングウェイ、ドス・パソス、トマス・ウルフ、ウィラ・キャザー、フォークナーとともにスタインベックに一章が割かれ、本稿を書くにあたり大いに参考にさせてもらった。
『怒りの葡萄』は上巻で、道中に祖父を失い、カリフォルニアに到着早々、今度は祖母が死んだ。しかし、一家を襲うこの後の苦難を考えれば、死は幸運だったかもしれない。
下巻の内容をざっくりと文庫カバーの解説で押えておく。
「カリフォルニアは各地から集まって来た農民に充ちていた。不当に安い賃金、百万エーカーを所有する一人の地主のために十万の農民が餓える。かくてこの広大な沃野に実を結んだのは、ほかならぬ〝怒りの葡萄〟であった」
一家がようやくたどり着いたキャンプ地は荒廃していた。そこには秩序も平安もなく、どのテントも仮小屋もぼろぼろの急ごしらえで、どうにか雨露を防ぐに足るものでしかなかった。すでに労働力過剰で賃金は引き下げられ、ストライキを起こせば警察が弾圧した。オクラホマからの移住者は、元からいた労働者にすれば仕事を奪い、賃金を引き下げる憎むべき対象として「Okie(オーキー)」と呼ばれ差別されたのだ。夢を抱いてルート66をひた走る一家にとって、思いもよらぬ事態であった。
そのあたりを「下巻」開幕まもないところでスタインベックは容赦なく、見てきたように描く。筑摩世界文學大系『ドス・パソス スタインベック』巻末の年譜によれば、スタインベックは1937年に「車を駆ってオクラホマ州へ赴き、砂あらしに追われる移住労働者の群れに加わり、しばらくのあいだ、彼らと生活を共にした。大作『怒りの葡萄』をすでに書き始めていたのである」(西川正身編)。つまり実際に「見てきた」のだった。
しかも、スタインベック家は祖父の代にドイツから一家もろともパレスチナへ大移動している。1848年のこと。スタインベックは自らの一族の歴史をあきらかになぞっている。新潮文庫版の大久保康雄解説を読むと、さらに言えばこの一族の大移動は「旧約聖書の『出エジプト記』ならびにその続編に基づいているといわれる」。くわしくは同著にあたってもらうとして、「エジプト王の圧政に苦しんだイスラエル人が、モーゼに導かれて、蜜の流れる豊穣の地カナンへと、荒野をさまよいながら長途の旅をつづけ」るという大枠はまさに『怒りの葡萄』そのものだ。
バラの名を与えられた女
ところで前代のスタインベック一家が移住する10名の中に妊娠中の長女も含まれていた。これは『怒りの葡萄』のローザ・シャーンを想起させる。登場人物のなかで、何故か彼女だけ「シャロンのバラ」という別名が与えられているのだ。志賀勝も『アメリカ現代作家』(研究社)の中で、「このしこめに何と美しい名をつけたものであろうか」と疑問を呈している。私はローザを「しこめ」とする記述を見逃し、勝手に美しい娘を想像していた。それには「バラ」の別名を冠せられたことも起因する。ジョン・フォードによる映画化でも、ローザ・シャーン役はドリス・ボードンという美しき俳優が扮している。
しかし、『怒りの葡萄』における彼女の存在は希薄である。妊娠中ということもあり、行動的ではなく一家に庇護され傷つきやすい女性として描かれる。夫のコニーが突然、失踪してしまうことで、より弱い立場に置かれてしまう。最後に腹の子は死んでしまうのだが、この「バラ」と名付けられた長女に、一種の聖性が与えられていると私は感じた。下巻で劣悪な環境下のキャンプ生活を送る場面。最初、シャロンは「寝乱れ姿で、眠そうな目」で母親の前に現れる。母親の眼に映った娘は「皺だらけのよごれた衣服と櫛のはいっていない乱れた髪」をしていた。汚れたヒロインである。
母親の諭しにより湯を使い、衣服を着替えたシャロンは変身していた。
「娘は髪を濡らして、とかしていたし、皮膚も、つやつやとピンク色をしていた。白い花模様のある青いドレスに着替えていた。足には婚礼のときの踵のある靴をはいている」
この視覚的効果は大きいだろう。夫の失踪により独り身となったシャロンは、この時処女性を取り戻し、神話性を帯びる。結末で彼女は子を死産させるが、悲劇の結末としてはそうなるしかないだろう。ところで、祖父の一家で妊娠していた長女は、無事出産をする。書き忘れていたが、この長女の名は「マリア」だった。
ジョード一家はとりあえず腰を落ち着けた野営地から、国営のキャンプへ移る。そこは管理され、設備の整った好ましい場所だった。そのことを示すユーモラスな一場面。ジョード家の末の姉弟、ルーシーとウィンフィールドは秩序を失った環境下で狂暴化するのだが、国営キャンプの衛生班の建物へ入っていく。親がするな、ということを子供はするものだ。そこで見たのがてかてかに光った陶器の便器だった。弟のウィンフィールドが便器の栓をひねると、便器を「ごうっと水音」がして2人を驚かせる。
つまり、これは水洗便所だ。ジョード家がカリフォルニアへ移住する1930年代後半、日本はまだ昭和10年代、水洗便所はどれほど普及していただろうか。戦艦大和はホテル並みの施設を持ち、水洗便所が使われていたと何かで読んだが、外に便所があったような東北の農村出身の若い海軍兵士たちは、水の流れるトイレに、ジョード一家の姉弟のようにさぞ驚いたことであろう。
(写真は全て筆者撮影)
≪当連載が本になりました!≫
『ふくらむ読書』(春陽堂書店)岡崎武志・著
「本を読む楽しみって何だろう」
『オカタケのふくらむ読書』掲載作品に加え、前連載『岡崎武志的LIFE オカタケな日々』から「読書」にまつわる章をPICK UPして書籍化!
1冊の本からどんどん世界をふくらませます。
本のサイズ:四六判/並製/208P
発行日:2024/5/28
ISBN:978-4-394-90484-7
価格:2,200 円(税込)
「本を読む楽しみって何だろう」
『オカタケのふくらむ読書』掲載作品に加え、前連載『岡崎武志的LIFE オカタケな日々』から「読書」にまつわる章をPICK UPして書籍化!
1冊の本からどんどん世界をふくらませます。
本のサイズ:四六判/並製/208P
発行日:2024/5/28
ISBN:978-4-394-90484-7
価格:2,200 円(税込)
『ドク・ホリディが暗誦するハムレット オカタケのお気軽ライフ』(春陽堂書店)岡崎武志・著
書評家・古本ライターの岡崎武志さん新作エッセイ! 古本屋めぐりや散歩、古い映画の鑑賞、ライターの仕事……さまざまな出来事を通じて感じた書評家・古本ライターのオカタケさんの日々がエッセイになりました。
本のサイズ:四六判/250ページ
発行日:2021/11/24
ISBN:978-4-394-90409-0
価格:1,980 円(税込)
書評家・古本ライターの岡崎武志さん新作エッセイ! 古本屋めぐりや散歩、古い映画の鑑賞、ライターの仕事……さまざまな出来事を通じて感じた書評家・古本ライターのオカタケさんの日々がエッセイになりました。
本のサイズ:四六判/250ページ
発行日:2021/11/24
ISBN:978-4-394-90409-0
価格:1,980 円(税込)
┃この記事を書いた人
岡崎 武志(おかざき・たけし)
1957年、大阪生まれ。書評家・古本ライター。立命館大学卒業後、高校の国語講師を経て上京。出版社勤務の後、フリーライターとなる。書評を中心に各紙誌に執筆。「文庫王」「均一小僧」「神保町系ライター」などの異名でも知られ著書多数。
Blog「はてなダイアリー」の「オカタケの日記」はほぼ毎日更新中。
2023年春、YouTubeチャンネル「岡崎武志OKATAKEの放課後の雑談チャンネル」開設。
岡崎 武志(おかざき・たけし)
1957年、大阪生まれ。書評家・古本ライター。立命館大学卒業後、高校の国語講師を経て上京。出版社勤務の後、フリーライターとなる。書評を中心に各紙誌に執筆。「文庫王」「均一小僧」「神保町系ライター」などの異名でも知られ著書多数。
Blog「はてなダイアリー」の「オカタケの日記」はほぼ毎日更新中。
2023年春、YouTubeチャンネル「岡崎武志OKATAKEの放課後の雑談チャンネル」開設。