南條 竹則
第43回 しらみ豆腐
 二十世紀も末に近い頃、用事で諏訪へ行ったわたしは、帰りに上田方面へまわって温泉に浸かろうと思った。
 上諏訪から中央本線で小淵沢まで行くと、小海線というローカル電車に乗り換え、正午ひる頃小諸に到着したので、途中下車して昼食をとることにした。
 
 
  小諸なる古城のほとり
  雲白く遊子悲しむ

 
 子供の頃、この有名な藤村の詩を途中まで暗誦したが、あれは国語の授業でだったか、それとも受験の参考書に載っていたのだろうかなどと考えながら、駅の近くをぶらついていると、白茶けた古い土壁つちかべの家があり、「一ぜんめし 揚羽あげは屋」という看板がかかっている。良さそうな店だとピンと来て、入ってみた。
 ほかに客はいなかった。
 店は鰻の寝床のように長く、中程に本棚があって、『島崎藤村全集』が麗々しく飾ってある。店の主人にそのことを言うと、うちは『千曲川のスケッチ』に出て来るのだと教えてくれた。
 わたしは初対面の主人と不思議に気が合った。
 何でその話をしたのか忘れてしまったが、今中国語を勉強していると言うと、御主人はニヤッと笑って、NHKの中国語講座のテキストを持って来た。たまたま彼も学習中だったのである。
 そんなことでいっそう話がはずみ、気持ち良く酔って、また電車に乗った。
 上田で電車を降り、向かった宿は田沢温泉の「ますや」だった。
 田中冬二に「田沢温泉」という詩がある。
機織虫はたおりむしが夜どほしないてゐました
青い蚊帳の上を 銀河がしらじらとながれてゐました
こぼれた湯が石に冷え
燈火に女の髪の毛のやうに
ほっそりと秋がゐました
           (『田中冬二全集』第一巻 筑摩書房 42頁)
 田沢はまさにこの詩から想像されるような静かな場所だ。
有乳湯うちゆ」という共同浴場のまわりに数軒の宿があり、ますやはその中でも一際ひときわ目立つ木造の高楼である。
 湯は硫黄泉。柔らかい肌触りの、ぬるめの湯だ。浴室は母屋から長い廊下を通って行く離れにあり、露天風呂から桜が見えた。母屋の下にも、小さいが趣のある風呂があった。
 わたしはこの宿が好きで、一時期よく連泊して小説を書いた。
 ますやのおかみさんはさっぱりした鷹揚な人で、料理にも気を配っていた。
 ある日、料理が前よりも美味くなったので、おかみさんにそう言ったら、
「今度の板前さんは良いでしょう」
 と嬉しそうな顔をした。
 その板前の時だったろうか。一度、こういう夕食を味わった。
 献立は川魚づくしで、鯉の洗いに鯉こく。小さなカラス貝を醬油煮にしたのが一つ、ぽっちりと付いて来た。鮎の腹におからを詰めたもの。小鮒の身をクルッと丸め、揚げて飴をからめたもの。漬物は美味しい野沢菜。
 信州の酒に合う、じつに気の利いた料理だった。
 わたしは原稿を書くのに飽きると、昼間遠出をして酒を飲んだ。
 上田へは何度も出かけている。「刀屋かたなや」や「もみぢや」で蕎麦を食い、「東都庵」でオタグリ* を食べた。「刀屋」に近い「源喜食堂」では、上田名物の塩烏賊しおいかが美味しかった。別所へ行った時は、「日野出食堂」で馬肉の煮込みを肴に一杯やった。
 あの揚羽屋にももう一度行ってみようと思い、
「小諸へ出かけて来ます」
 と言うと、おかみさんは、
「揚羽屋?」
 とすぐに聞き返した。
 じつは、ますやも藤村ゆかりの旅館で『千曲川のスケッチ』に出て来る。そんな縁から揚羽屋を知っていたのだろう。
 そうして二度目に行った時は、御主人が紹介してくれた学校の先生と痛飲した。わたしは店で眠り込んでしまい、夕方駅まで送ってもらって、何とか宿に帰り着いた。

『千曲川のスケッチ』は小学生の時に読んだが、この随筆集を初めて読み返したのは、つい最近のことだ。
 アッ、ほんとに出ているな──
「山の温泉」(その五)という文章に、「一月ばかり前に、私は田沢温泉という方へ出掛けて行って来た」というくだりがある。

 青木村というところで、いかに農夫らが労苦するかを見た。彼らの背中に木の葉を挿して、それを僅かの日除ひよけとしながら、田の草を取って働いていた。昼なぞは洋傘こうもりでもなければ歩かれないほどの熱い日ざかりに、この農村を通り抜けると、すこし白く濁った川にいて、谷深く坂道をのぼるようになる。川の色を見ただけでも、湯場ゆばに近づいたことを知る。そのうちに斯様こんな看板の掛けてあるところへ出た。
  (図 湯本 みやばら ※表示省略)
 升屋というは眺望のい温泉宿だ。湯川の流れる音が聞える楼上で、私たちの学校の校長の細君が十四、五人ばかりの女生徒を連れてきているのに逢った。この娘たちも私が余暇に教えに行く方の生徒だ。
 楼上から遠く浅間一帯の山々を望んだ。浅間の見えない日は心細い、などと校長の細君は話していた。(『千曲川のスケッチ』岩波文庫72-73頁)
一方、揚羽屋は「一ぜんめし」(その八)という文章の舞台になっている。
 私は外出したついでに時々立寄って焚火たきびにあててもらう家がある。鹿島神社の横手に、一ぜんめし、御休処おやすみどころ、揚羽屋とした看板の出してあるのがそれだ。
 (中略)
 揚羽屋では豆腐を造るから、服装なりふりかまわず働く内儀かみさんがよく荷を担いで、襦袢じゅばんの袖で顔の汗を拭き拭き町を売って歩く。朝晩の空にとおる声を聞くと、アア豆腐屋の内儀さんだとすぐに分る。自分の家でもこの女から油揚だの雁もどきだのを買う。近頃は子息むすこも大きくなって、母親おっかさんの代りに荷を担いで来て、ハチハイ** でもやっこでもドンドンとやるようになった。
 揚羽屋には、うどんもある、もっとも乾うどんのうでたのだ。一体にこのへんでは麺類を賞美する。私はある農家で一週に一度ずつ上等の晩餐に麺類を用うるといううちを知っている。
 蕎麦はもとより名物だ。酒盛の後の蕎麦振舞と言えば本式の馳走になっている。それから、「お煮掛にかけ」ととなえて、手製のうどんに野菜を入れて煮たのも、常食に用いられる。揚羽屋へ寄って、大鍋のかけてある炉辺ろばたに腰掛けて、煙の目にしみるような盛んな焚火にあたっていると、私はよく人々が土足のままでそこに集りながら好物のうでだしうどんに温熱(あたたかさ)を取るのを見かける。「お豆腐のたきたては奈何いかがでごわす。」などと言って、内儀さんが大丼おおどんぶりに熱い豆腐の露を盛って出す。亭主も手拭を腰にブラサゲて出て来て、自分の子息が子供相撲に弓を取った自慢話なぞを始める。(同125-126頁)
藤村は「荒くれた人たちの話や笑声に耳を傾け」、次第に心易くなって、「亭主が一ぜんめしの看板を張替えたからと言って、それを書くことなぞまで頼まれたりする」ほどだった。
 揚羽屋の御主人は早く亡くなり、店もしばらく前に閉めてしまった。その後、べつの人が建物を改装し、「揚羽屋」の名でカフェ・居酒屋を営んでいるそうだ。あの建物が残って活用されているのはまことに喜ばしいが、「しらみ豆腐」はつくらないのかしら。
 これはかつての揚羽屋の名物で、豆腐に白胡麻を入れたものだ。胡麻をって練り込むのではなく、粒のまま入っている。柔らかい豆腐にプツプツする胡麻の歯ざわりが食感の変化を与えていて、面白い。
『千曲川のスケッチ』には出て来ないが、藤村の発案なのだと御主人は語っていた。

* 馬の臓物の煮込み。
** 八杯はちはい豆腐のこと。


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この記事を書いた人
文/南條 竹則(なんじょう・たけのり)
1958年生まれ。東京大学大学院英語英文学修士課程修了。作家、翻訳家。
『酒仙』で日本ファンタジーノベル大賞優秀賞を受賞。以後、幻想小説、温泉、食文化への関心が深く、著書も多い。主な著書に、小説『魔法探偵』、編訳書『英国怪談珠玉集』など多数。

絵/橋本 金夢(はしもと・きんむ)