第37回 堀辰雄「大和路」を紙上で歩く
9月に入っても残暑というより猛暑が続く。東京でも連日30度超えで日中はうだっている。それでも朝夕は少し涼しさも感じられ、草むらで鳴く虫の音が日に日に高くなる。やはり秋は静かに忍び寄ってきているのだ。閂をかけて見返る虫の闇 桂信子
大岡信『第九 折々の歌』によれば、作者は夫の急逝で独り身となった。「孤愁が虫すだく闇の深さをひしひしと呼び寄せている」は大岡の鑑賞。虫が鳴く音まで聞こえてきそうだ。
この静かな秋にふさわしい読書をした。堀辰雄「大和路」である。抄録ではあるが、新潮文庫版『大和路・信濃路』で読んだ。表題作ほか「狐の手套」「雉子日記」ほか、堀のエッセイを広く集める。かなり古い文庫で鉛筆書きの私の字で「S53、8月10」と購入日が記してある。最終ページには「81、11月24日」と読了日があって、私は24歳。貧しい日々に、1冊1冊を買えば必ず読む健気な文学好きの若者であったことを思い出す。
しかし、急に堀辰雄に手を出したのはきっかけがあって、個人住宅を専門に設計する建築家・中村好文の『普段着の住宅術』(ちくま文庫)を読んだからだ。「建物にさわる人」という一文に、著者がいい建物に対すると必ずそこに触ってみると書かれてあり、そこから堀が書いた「唐招提寺の円柱に触れる印象的なくだり」が紹介される。これが「大和路」だ。
私が読んだのはもう40年前のことで、さすがにすっかり忘れている。そこで所持する文庫を引っ張り出してきた。古い文庫本が処分されずに残ったのは、紙は茶けて、あちこちラインが引いてある。万年筆や色鉛筆など筆記具はさまざま。とにかくこれでは売り物にはならない。しかも若き日、熱心に読んだ本としての愛着もある。
堀の師匠筋にあたる芥川龍之介が死去した際、とむらいのために斎藤茂吉の歌が引用してあり、そこに紺の色鉛筆で線を引いている。こんな歌だが、感動したのだった。
「壁に来て草かげろふはすがり居り澄きとほりたる羽のかなしさ」
堀辰雄の文章に線を引くには色鉛筆がよく似合うのだと気づいた。万年筆のインクは濃すぎて裏映りがする。
さて堀辰雄は昭和16年10月、奈良へ旅行し滞在している。「大和路」は妻(多恵子)宛ての手紙という体裁で綴られる。堀は旅先からひんぱんに手紙を書いたようで、堀多恵子編『堀辰雄 妻への手紙』(新潮文庫)にまとまっている。同じ頃、実際に出した手紙も収録されているが、『大和路』のものよりはるか短い。やはり、作品として意識しながら執筆したのが「大和路」のようだ。
円柱に触ってみる
堀は10月10日から連泊で「奈良ホテル」に投宿。現在もそのままの形で営業されていて、私も奈良へ行ったとき、見物に出かけたが泊まる勇気はない。なにしろ高級ホテルで、1泊6万円という数字が検索して目に入った。堀は天平時代を舞台にした小説を構想中(「曠野」に結実)で、それを仕上げるため奈良へ来た。それまでも奈良は何度か来ており、毎日のように出かけ寺社を拝み、いにしえの道を散策している。昭和16年10月といえば、2カ月後には日本の真珠湾攻撃により米英との戦闘の火ぶたが切って落とされる年だ。10月はすでにドイツがモスクワ、ウクライナほかに侵攻、第二次大戦の戦局は悪化の一途をたどっていた。
その暗雲が、堀辰雄の奈良にはまったく影を落としていない。10月12日、ホテルで朝食をとり、午後「海竜王寺(堀の表記)」を目指す。奈良の地図を見ると「海龍寺」は平城宮跡の東、春日神社、法華寺と片寄せ合うように建つ。奈良ホテルからするとけっこうな距離だ。電車こそ使うが、バスやタクシーに乗る気配はなく、基本は歩き。佐保山のほとりから秋らしい日差しを浴びながら法華寺村に着いた。
「村の入口からちょっと右に外れると、そこに海竜王寺という小さな廃寺がある。そこの古い四脚門の蔭にはいって、思わずほっとしながら、うしろをふりかえってみると、いま自分の歩いてきたあたりを前景にして、大和平一帯が秋の収穫を前にしていかにもふさふさと稲の穂波を打たせながら拡がっている」
こうした何気ない描写に、妻への手紙という表向きの体裁を越えた、強い作家精神を感じるのだ。つまり、戦争の「影を落としていない」と書いたのは逆で、血なまぐさく荒々しい時代であることを十分意識したうえで、堀は古都の風景や廃れた寺、ひっそりと鎮座する仏像と対峙しているのだ。堀辰雄といえば、軽井沢、サナトリウム、病弱な美しい娘、フランス文学といった衣装に目を取られ、それらは間違ってはいないが、「大和路」には、その奥に潜む強靭なものを感じ取る。若き日に読んだ時はそのことに気づかなかった。
中村好文が感動した唐招提寺の件も引いておこう。寺を立ち去る前に、堀は円柱に触れる。
「円柱の一つに近づいて手で撫でながら、その太い柱の真んなかのエンタシスの工合を自分の手のうちにしみじみと味わおうとした。僕はそのときふとその手を休めて、じっと一つところにそれを押しつけた。僕は異様に心が躍った」
海の向こうで戦争が起きている。着々と軍靴の音も忍び寄る。しかし、堀にとっては、今目の前に触ってみることのできる円柱こそが現実なのだ。
私も今度、奈良を訪れたら「大和路」の跡をたどって、唐招提寺では円柱にそっと触れてみようと思っている。
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岡崎 武志(おかざき・たけし)
1957年、大阪生まれ。書評家・古本ライター。立命館大学卒業後、高校の国語講師を経て上京。出版社勤務の後、フリーライターとなる。書評を中心に各紙誌に執筆。「文庫王」「均一小僧」「神保町系ライター」などの異名でも知られ著書多数。
Blog「はてなダイアリー」の「オカタケの日記」はほぼ毎日更新中。
2023年春、YouTubeチャンネル「岡崎武志OKATAKEの放課後の雑談チャンネル」開設。